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官僚時代の[[田中角栄]]との関係から、当選後は[[木曜クラブ]]に所属すると思われていたが、[[田中金脈問題]]や[[ロッキード事件]]が世間を賑わせたことで派閥入りを見合わせ、無派閥を選択する。[[1984年]]、[[宏池会]]入りし、以降、自民党調査局長、経理局長、衆議院法務委員長などの役職を務めた。[[1988年]]2月に株売買による2億円の申告漏れ(証券会社の手続きミスによる)により、衆議院法務委員長を引責辞任した。
 
[[1990年]]、[[第2次海部内閣]]の経済企画庁長官として初入閣。[[1998年]]12月には[[河野洋平]]、[[麻生太郎]]らと宏池会を離脱し、[[大勇会]](河野グループ)に参加、会長代行を務めた。
[[金融]]危機にあたり、[[1998年]]8月に[[衆議院]]金融問題特別委員長に就任。[[2000年]]、自民党金融問題調査会会長を務め、同年7月には更迭された[[久世公堯]]の後任として、[[第2次森内閣]]の[[金融再生委員会]]委員長に就任。[[2001年]]には自民党[[税制調査会]](税調)会長に就任し、事業税についての外形標準課税、証券売買についての特定口座制の創設など税制改正を実現したが、税調が「インナー」と呼ばれる高齢の議員で構成される幹部会によって壟断されていると批判の声が強まる。
 
[[2003年]]、[[第43回衆議院議員総選挙]]まで9期連続当選。[[第43回衆議院議員総選挙]]に[[鳥取県第2区|鳥取2区]]から立候補するが、[[川上義博]]に敗れ落選した。所属する大勇会の座長は[[2006年]]末の同グループ解散まで務め、現在は[[為公会|]](麻生派]]の顧問を続けている。大蔵週報に連載していたコラムを著書「読者諸賢いかに思われるか」として断続的に出版している。
 
=== 現在 ===