「コーデル・ハル」の版間の差分

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[[1903年]]から[[1907年]]までハルはテネシー州第5巡回裁判区の裁判官を務めた。その後、彼は下院議員に当選し、11期(1907年 - 1921年および1923年 - 1931年)22年間同職を務めた([[民主党 (アメリカ)|民主党]]全国委員会議長を務めた二年間中断された)。下院議員職中、彼は低率関税の改訂に努め、[[1913年]]には最初の連邦所得税法案(1916年の同法案修正も)、[[1916年]]には連邦および州相続税法を成立させた。彼は[[1930年]]に上院議員に選出され、[[1933年]]にはフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領より国務長官に任命された。ハルの政策は貿易の促進と関税低下を支援した。また、1930年代の東アジア開発に対する彼の警告は、アメリカ政府に日本との戦争準備を支援した。
 
国務長官としての過度に強硬な姿勢[[太平洋戦争]]開戦前夜の[[1940年]]から[[1941年]]の[[日米交渉]]の失敗に全般的に関与の最大の原因となった<ref>戦後東京裁判でパール判事はこのような要求をされればいかなる小国であっても開戦やむなしという判断をしたであろうと述べている</ref>。とりわけ1941年11月に[[ハル・ノート]]を提示したことが日本側の外交交渉断念につながった。ハルの日米交渉への姿勢に対する評価は、強力で必要なものであったと賛美するものから過度に強硬で単に開戦を刺激したに過ぎないと批判するものまで、歴史家によって大きく変化する。
 
[[1943年]]のモスクワ会議ではアメリカ全権代表を務めた。
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ハルは[[ドイツ]]のロケット科学者[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]と彼の研究チームを[[ペーパークリップ計画]]によってアメリカに移送し、アメリカの戦後のロケット計画を組織するのに貢献した。同計画は後の[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の宇宙開発計画の基礎となった。
 
ハルは[[国際連合]]の発案者および熱心な支持者であったことで有名である。彼は「国連憲章」の執筆を国務省に強く求めた主要人物であり、それは1943年の中頃までに実行された。ハルは[[1944年]]11月に健康問題で国務長官を辞任した。ルーズヴェルトはハルの辞任に際して「(彼は)世界で平和のためにこの大きな計画を達成するために最も尽力した一人である。」と語った。ハルは1945年に[[ノーベル平和賞]]を受賞した<ref>[http://japanese.joins.com/article/246/191246.html 【コラム】ノーベル賞に冷静でなければならない理由=韓国(2)][[中央日報]]</ref>。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]は以前依然[[国際連盟]]への加入に反対したが、ハルの超党派的献身がアメリカ合衆国の国際連合加入に際して共和党が協力した理由だとされる。彼はしばしば「国連の父」と呼ばれる。
 
ハルは国務長官の職を11年9ヶ月務めた。彼は最も長期間国務長官を務めた人物である。