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[[1919年]](大正8年)から[[1927年]](昭和2年)にかけて新聞雑誌に連載小説「大盗伝」([[1921年]]・大正10年)「荊の冠」(1922年・大正11年)「富士に題す」(1927年・昭和2年)を書き大衆小説の人気作家となる。
 
[[1925年]](大正14年)ごろ、[[兵庫県]][[武庫郡]][[鳴尾村 (兵庫県)|鳴尾村]](現在の[[西宮市]])[[甲子園 (地名)|甲子園]]の自宅を『[[少年倶楽部]]』編集長の[[加藤謙一]]が訪問して、連載小説の寄稿を依頼した<ref name="katop">加藤丈夫『「漫画少年」物語 <small>編集者加藤謙一伝</small>』[[都市出版]]、2002年、pp.116 - 118</ref>。佐藤は「洟垂れ小僧向けに書けるか」と激怒し、諦めた加藤が去り際に「佐藤先生ならよい読み物を書いてもらえると思って来たのだが」と口にすると「考えてみる」と翻意、加藤の帰京後しばらく経ってから電話で連載受諾を返答した<ref name="katop"/>。この結果[[1927年]]([[昭和]]2年)から少年小説「[[あゝ玉杯に花うけて]]」を連載して好評を呼び、挿絵画家[[高畠華宵]]の寄稿拒否で低迷していた『少年倶楽部』の部数を大きく伸張させた<ref name="katop"/>。その後も「少年讃歌」「英雄行進曲」などを書き、同誌の黄金期を築いた。また、加藤謙一に漫画の掲載を進言し、[[田河水泡]]の「[[のらくろ]]」が生まれることになる<ref>『「漫画少年」物語 <small>編集者加藤謙一伝</small>』p.124</ref>。
 
『少年倶楽部』と同じ大日本雄弁会講談社(現・[[講談社]])の雑誌「[[キング (雑誌)|キング]]」などにも多くの連載小説がある。「少年連盟」は[[ジュール・ヴェルヌ]]『[[十五少年漂流記]]』の翻案である。