「小倉藩」の版間の差分

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[[享保]]15年(1730年)には、3代[[小笠原忠基|忠基]]の次男[[小笠原長逵|長逵]]が、継嗣のいなかった播州[[安志藩]]初代藩主[[小笠原長興]]の養子となってこれを相続、以後小倉藩・小倉新田藩・安志藩の小笠原三家は継嗣の養子縁組などにより姻戚関係を深め、小倉新田藩のみならず本来小笠原氏の嫡流だった安志藩までもが小倉藩の分家筋のように位置付けられていくこととなった。
 
4代[[小笠原忠総|忠総]]は[[宝暦]]8年(1758年)に小倉城内に藩士の文武教練場「思永斎」を設けた。これが後の[[藩校]]「思永館」となった。
 
[[安永]]6年(1777年)[[犬甘知寛]](いぬかい ともひろ)が家老に就任し藩財政改革を行った。犬甘の努力により[[寛政]]10年(1798年)頃には財政も好転し銀8千貫の貯蓄ができるまでになったが、反対派の陰謀により[[享和]]3年(1803年)に失脚、無実の罪により入牢しそこで非業の死を遂げた。その後藩内では重臣間の派閥争いが続くこととなった。
[[幕末]]の[[安政]]元年(1854年)には家老[[島村志津摩]]と郡代[[河野四郎]]らによる藩政改革が始まる。農産品・[[石炭]]・焼物などの主要産品の集荷と販売を藩機構によって管理し、生産者を育成する一方で販路を開拓、また[[庄屋]]層の農村運営を検査して綱紀粛正を徹底した。
 
[[文久]]3年(1863年)には、海防強化のため[[関門海峡]]沿岸に葛葉台場・東浜台場・西浜台場などの[[砲台]]を建設し、補助兵力として農兵の募集・訓練も開始した。この年には対岸の[[長州藩]]が関門海峡を通行する外国船に砲撃を行い、[[下関戦争]]につながってゆくが、幕府は敵対行動を取っていない外国船への一方的な先制攻撃を指示しておらず、小倉藩は配備は敷いたものの戦闘行動は行っていない。この頃長州藩との間では、関門海峡に面する小倉藩領の田野浦などに長州藩が一方的に兵を入れて占拠し砲台を建設しようとするなど紛争が続いたが、小倉藩は幕府とも協議の上、長州藩との戦闘発生武力衝突を回避し交渉による解決に努めた。長州藩との関係は、[[八月十八日の政変]]以降長州藩の勢力が弱まり、占拠されていた地区は返還され、一旦小康状態となる。小倉藩はその後も戦力防備強化を図りに努め、慶応元年(1865年)には[[蒸気船]]・[[飛龍丸]]を購入している。
 
[[長州征討]]では、小倉藩は征討軍の九州側最先鋒として第一次、第二次ともに参加した。元治元年(1864年)の第一次長州征討では長州藩が江戸幕府に対する恭順を示し、戦闘は発生しなかったが、翌慶応元年(1865年)の第二次長州征討(四境戦争)では、小倉藩は征長総督の老中[[小笠原長行]]<ref>同じ小笠原氏だが、忠真の兄[[小笠原忠脩|忠脩]]の子孫で[[唐津藩]]藩主・[[老中]]。</ref>の指揮下で小倉口の先鋒として参戦した。この戦闘は幕府・小倉藩に不利に展開し、長州軍の領内侵攻により[[門司区|門司]]が制圧されると、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱し、他の九州諸藩も軒並み撤兵に転じた。孤立した小倉藩は慶応2年(1866年)8月1日小倉城に火を放ち<!--(小倉城自焼は一説に熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも言われる)--><!--混乱回避-->、[[田川郡]]香春(現[[香春町]])に撤退した。その後も、家老[[島村志津摩]]を中心に軍を再編して[[企救郡]]南部の[[金辺峠]]及び狸山に防衛拠点を築き、高津尾を前線基地として長州軍に遊撃戦を挑み、一時は小倉城を奪還するに至った。しかし、同年10月には他戦線での停戦成立に伴って長州側の兵力が増強されると、次第に圧迫されるようになり、多くの防衛拠点が失われるに及んで、停戦交渉が開始された。交渉は困難を伴い、講和締結は翌慶応3年(1867年)1月20日となった。この講和条件の一つとして、企救郡については、長州征討の根拠の一つであった長州藩主父子の罪が解かれるまで長州藩の預りとして引き続き長州藩の占領下に置かれることとされ、小倉藩の手を離れることとなった。企救郡はその後も小倉藩に返還されず、[[明治]]2年(1869年)に[[日田県]]の管轄に移されることとなる。
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