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'''増命'''(ぞうみょう、[[承和 (日本)|承和]]10年([[843年]]) - [[延長 (元号)|延長]]5年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]([[927年]][[12月7日]]))は、[[平安時代]]前期の[[天台宗]]の[[僧]]。父は左大史[[桑内安峰]]。死後に'''静観[[僧正]]'''の号を下賜される。第10代[[天台座主]](在任:[[延喜]]6年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]-同22年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]])。
 
== 生涯 ==
[[比叡山]]西塔院の[[延最]]に師事、[[円仁]]から天台教学を学び、[[円珍]]から灌頂を受けた。[[貞観 (日本)|貞観]]10年([[868年]])に26歳の若さで当時の[[清和天皇]]のために『宗論御八講』を著す。[[仁和]]元年([[888年]])西塔院主となり、比叡山の他の院に比べて衰微していた西塔の再興に尽力する。[[昌泰]]2年([[899年]])[[園城寺]][[長吏]]、延喜6年([[906年]])には天台座主に任じられた。[[宇多天皇|宇多法皇]]の[[出家]]の際、受戒・受灌の師となり、増命のいた西塔院・千光院を法皇がしばしば訪問している。また、宮中において[[玉体]]安泰などの祈願をしばしば行っている(特にこの頃は[[菅原道真]]の[[怨霊]]の噂が絶えず、[[皇太子]][[保明親王]]急死の折には百日にわたる修法を行っている。またこの頃[[唐]]から漂着した僧侶が胸の病に苦しんでいる事を知って祈祷を施して平癒させている)。延喜15年([[915年]])少僧都に昇任し、延長3年([[925年]])には[[僧正]]に至った。同5年([[927年]])には奏上して自らに灌頂した師である円珍に智証大師の号を下賜されるのに尽力した。同年中に死去したため、下賜されるのを見る事は無かった。
 
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[[Category:平安時代の僧]]