「チャールズ・ダーウィン」の版間の差分
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子供のころから[[博物学]]的趣味を好み、8歳の時には植物・[[貝殻]]・[[鉱物]]の収集を行っていた<ref>小川眞里子『甦るダーウィン』岩波書店 ISBN 978-4000023962, P.207 (注40の解説)- 原著は Trinder B. (1998) ''A History of Shropshire'' (West Sussex: Phillimore, 2nd) P.79.</ref>。父ロバートは祖父とは異なり博物学に興味はなかったが、[[園芸]]が趣味だったため幼少のダーウィンは自分の小さな庭を与えられていた。また祖父と同名の兄エラズマスは化学実験に没頭しておりダーウィンに手伝わせた。ダーウィンは兄をラズと呼んで慕った。
[[1818年]]からシュルーズベリーの[[ボーディングスクール|寄宿舎校]]で学んだ後、16歳([[1825年]])の時に父の医業を助けるため親元を離れ[[エディンバラ大学]]で医学と地質学を学ぶ<ref>1825年秋から1827年の春までの一年半</ref>。[[地質学]]の[[ロバート・ジェームソン]]教授は[[ジェームズ・ハットン]]の考え方を冷たく批判し、学生のダーウィンはそれを信じた<ref>ジャック・レプチェック著、平野和子訳『ジェイムズ・ハットン -地球の年齢を発見した科学者-』春秋社 2004年 211ページ</ref>。しかし、
エディンバラ大学で良い結果を残せず、父はダーウィンを牧師とするために1827年に[[ケンブリッジ大学]][[クライスツ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|クライスト・カレッジ]]に入れ、[[神学]]や[[古典]]、[[数学]]を学ばせた。ダーウィンは[[牧師]]なら空いた時間の多くを博物学に費やすことが出来ると考え父の提案を喜んで受け入れた。しかしケンブリッジ大学でも、はとこ[[ウィリアム・ダーウィン・フォックス]]とともに必修ではなかった博物学や[[昆虫採集]]に傾倒した。[[ウィリアム・ダーウィン・フォックス|フォックス]]の紹介で聖職者・博物学者[[ジョン・スティーブンス・ヘンズロー]]と出会い親しい友人、弟子となった。ダーウィンは学内では、ヘンズローが開設した庭園を二人でよく散歩していたことで知られていた。後にヘンズローとの出会いについて、自分の研究にもっとも強い影響を与えたと振り返っている。また同じく聖職者で地層学者だった[[アダム・セジウィッグ]]に学び、[[層序学]]に並々ならぬ才能を発揮した。同時に当時のダーウィンは神学の権威[[ウィリアム・ペイリー]]の『{{仮リンク|自然神学|en| Natural Theology: or, Evidences of the Existence and Attributes of the Deity}}』を読み、{{仮リンク|デザイン論|en|Design theory}}(全ての生物は神が天地創造の時点で完璧な形でデザインしたとする説)に納得し信じた。[[自然哲学]]の目的は観察を基盤とした帰納的推論によって法則を理解することだと記述した[[ジョン・ハーシェル]]の新しい本や、[[アレキサンダー・フォン・フンボルト|アレキサンダー・フンボルト]]の科学的探検旅行の本を読んだ。彼らの「燃える熱意」に刺激され、熱帯で博物学を学ぶために卒業のあと同輩たちと[[テネリフェ]]へ旅行する計画を立て、その準備として[[アダム・セジウィッグ]]の[[ウェールズ]]での地層調査に加わった。また、ビーグル号で博物学者としての任務を果たす準備ともなった<ref>ジャック・レプチェック著、平野和子訳『ジェイムズ・ハットン -地球の年齢を発見した科学者-』春秋社 2004年 213ページ</ref>。
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