「ピエール・ジャンサン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 28 件をウィキデータ上の d:q298581 に転記
編集の要約なし
2行目:
'''ピエール・ジュール・セザール・ジャンサン'''({{lang|fr|Pierre Jules César Janssen}}, [[1824年]][[2月22日]] - [[1907年]][[12月23日]]) は、[[フランス]]の[[天文学者]]。
 
1868年に太陽光の中に[[ヘリウム]]の[[スペクトル|スペクトル線]]を発見した。これは、同じ年イギリスの[[ノーマン・ロッキャー|ロッキャー]]による発見とは独立に行われた。また、[[日食]]を待たずに太陽の[[紅炎|プロミネンス]]を観測する方法を発見した。
 
==経歴==
ジャンサンは[[パリ]]に生まれた。父は有名な音楽家であった。数学と物理学を学び、リセ・シャルルマーニュなどで教師を務めたが、天文観測隊の隊員として世界を飛びまわる生涯をおくった。1857年から数度、[[方位磁針|磁気偏差]]の研究のために[[ペルー]]にでかけた。1874年には金星の日面通過の観測のために日本を訪れ、12月9日に観測に成功した。([[長崎市]]金比羅山(琴平山)に観測記念碑がある)。[[金星]]の日面通過は1882年の[[アルジェリア]]でも観測している。日食を追いかけてさまざまな土地に観測にでかけた。1867年にはイタリアの[[トラーニ]]、1868年にはインド南部の[[グントゥール]]、1870年には[[アルジェ]]、1875年には[[タイ王国|タイ]]<!--Siamは旧称-->、1883年には[[カロリン諸島]]、1905年にはスペインの[[アルコセーブル]]<!--Alcosebre-->を訪れている。1870年の観測では、[[普仏戦争]]でプロシア軍に包囲されたパリから気球にのって脱出し、観測に加わった。1893年69歳の時、大気の影響を軽減するために[[モンブラン]]の頂上付近で4日にわたって観測を行った。1875年から[[ムードン天文台]]長になった。
 
ジャンサンは[[1868年]]8月18日に行った[[インド]]での日食観察で、新しい元素のスペクトルを発見した。ジャンサンが[[科学アカデミー (フランス)|フランス科学アカデミー]]にこの発見を報告したのは同年10月20日のことであったが、奇しくも同日にロッキャーがイギリスで行った太陽光スペクトルの観測で同じスペクトルを報告発見ていた。スペクトルを示す元素は、後にロッキャーと[[エドワード・フランクランド]]によってヘリウムと名づけられた。
 
==没後==
[[火星]]に彼の名を冠した[[クレーター]]がある。
 
{{Scientist-stub}}
{{DEFAULTSORT:しやんさん ひえる}}
[[Category:フランスの天文学者]]