「アマラスンタ」の版間の差分

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[[534年]]に息子のアタラリックが放蕩の末に死亡するが、アマラスンタは事前に東ローマ帝国と同盟関係の更新の交渉を行っていたため、次代の国王(女王)として即位することとなった。女王即位にあたり、反対派であったテオダハドを共同統治者として指名するなど彼の懐柔を試みたが、[[534年]]末、テオダハドに[[クーデター]]を起こされて失脚した。ウォルシニィ湖(現[[ボルセーナ湖]])のマルタナ島に幽閉されたアマラスンタは、535年に彼女を恨む反対派の生き残りに暗殺された。
== 子女・子孫 ==
アマル家の血筋を引くとされるエウタリック(? - 523年)との間に1男1女を儲けた。
*アタラリック([[516年]] - 534年) - 長男。東ゴート王国第2代国王。
*マタスンタ([[517年]]/[[518年]] - ?) - 長女。東ゴート王国第5代国王[[ウィティギス]]の王妃となる。ウィティギスは国内で支持基盤を固めなくてはならず、アマル家とのつながりを持ってより王位を確かなものにしよう、との思惑から妻と別れてマタスンタと強引に結婚した為、18歳のマタスンタはこの望まない結婚に反発を覚え、加えてこの結婚のためにすげなく離婚されたウィティギスの妻にも同情し、怒りを内に秘めていたと言われている。[[539年]]、ウィティギスはベリサリウスから和平を持ちかけられるが、この矢先にラヴェンナの穀物倉庫が全焼、人々は王妃マタスンタの手引きではないか、と疑い内部の結束が揺らいたという。結局、ウィティギスとマタスンタは東ローマ軍の捕虜となり、コンスタンティノポリスに送られ、マタスンタは[[ユスティニアヌス1世]]の従兄弟・ゲルマヌス・ユスティヌス(? - [[550年]])と再婚し、息子・ゲルマヌス(550年 - [[605年]])を儲けた。故にゲルマヌスはアマラスンタとエウタリックの孫でテオドリックの曾孫、アタラリックの甥にあたる。
 
== 参考文献 ==