「ウィティギス」の版間の差分

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ウィティギスは[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア帝国]]との外交交渉を行って東ローマ帝国を東西から挟撃することを画策したが、[[539年]]末には遠征軍にラヴェンナ周辺を抑えられた。ただし、ペルシアが戦争を起こす構えを見せたため、東ローマ帝国は戦争を早期終結させるべく、東ゴート王国に和平交渉をもちかけた。
 
[[540年]][[5月]]、ウィティギスは首都ラヴェンナを無血開城し、マタスンタと共に身柄を拘束され、他のゴート人貴族や降伏した軍人たちとともに[[コンスタンティノポリス]]に移送された。マタスンタは、ユスティニアヌス帝の従兄弟[[ゲルマヌス・ユスティヌス]](? - [[550年]])と再婚し、息子・ゲルマヌス(550年 - [[605年]])を儲けている。
== 家族 ==
ウィティギスの先妻との息子はウィティギス自身や王妃マタスンタ、[[テオドリック]]の姪アマラベルガがテューリンゲン王ヘルマンフリートとの間に生んだ息子と娘、更に[[西ゴート]]王[[テウディス]]の甥でヴェローナの指揮官だったイルディバルド(ウィティギスの後に[[東ゴート]]王となる)の子供と同じく、他の貴族たちとともにコンスタンティノポリスに送られた。
 
また、前述の通り、妻と離婚しアマル家の生き残りであるマタスンタと強引に再婚したが、子女はいない。
 
== 参考文献 ==