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石虎の三男(夭逝を除くと次男)として生まれた。石虎は大趙(後趙)天王となると、石宣を[[河間市|河間]]公とした。最初の太子の[[石邃]]が父に処刑された後に、代わって太子として選ばれた。
 
石宣は贅沢三昧に暮らし、狩りを特に好んだ。狩りの時、行宮では四面から百里に渡って列を連ね、禽獣を囲い込み、文武官を皆跪立させた。夜になると、光燭によって昼の如き明るさがもたらされた。騎兵は禽獣の中を走らせ、矢を射掛けさせた。石宣は顕徳美人という側室と共に輦に乗り込んで眺めた。禽獣が全て射殺された後、禽獣を殺しなかった者は罪とされた。官吏は戦慄し、士卒は飢寒し、多人が命を落とした。
[[建武 (後趙)|建武]]14年(348年)、石宣は石虎が寵愛していた弟の石韜を殺害し、さらに石虎も殺そうと考えた。石虎は杜珠の病を口実に石宣を誘い出して捕らえ、顎に穴を受け、鉄環で繋いだ。[[仏図澄]]は「陛下が寛恕すれば、福祚が多いでしょう。惨殺すれば、彼の霊は彗星となって皇宮を一掃し呪い殺されるでしょう」と諌めた。石虎は聞き入れず、石宣の髪と舌を抜かせ、眼をえぐり、手足を斬り、腸を潰し、火を付けて焼き殺し、灰は道へばらまいた。石虎は、[[安定公主 (前趙)|劉昭儀]]らとともに台に登り、処刑を観ていた。石宣の家族や臣下もみな殺された。
 
[[建武 (後趙)|建武]]14年(348年)、石宣は石虎が寵愛していた弟の[[石韜]]を殺害し、さらに石虎も殺そうと考えた。石虎は杜珠の病を口実に石宣を誘い出して捕らえ、顎に穴を受け、鉄環で繋いだ。[[仏図澄]]は「陛下が寛恕すれば、福祚が多いでしょう。惨殺すれば、彼の霊は彗星となって皇宮を一掃し呪い殺されるでしょう」と諌めた。石虎は聞き入れず、石宣の髪と舌を抜かせ、眼をえぐり、手足を斬り、腸を潰し、火を付けて焼き殺し、灰は道へばらまいた。石虎は、[[安定公主 (前趙)|劉昭儀]]らとともに台に登り、処刑を観ていた。石宣の家族や臣下もみな殺された。
 
石宣の家族や臣下もみな即席に殺された。石宣の最幼い息子は石虎の衣にしがみ付いて、「僕は悪行してない」と言った。石虎はこの子を膝に抱く、赦そうとしたが、大臣はこの子も奪われ、台下に投げ捨て殺された。この子は最後まで大声で泣き叫び続けだ。石虎はショックのあまり、病気を発した。
 
== 伝記資料 ==