「コロンビア川」の版間の差分

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}}</ref><ref name=DallesPpl12>{{harvnb|Boyd|1996|pp=12–13}}</ref>。
 
馬の到来とともに、馬術や{{仮リンク|調教 (馬)|label=調教|en|horse training}}技術などの大平原地帯の文化が流入し、機動性や狩猟の効率、交易範囲の拡大、馬と戦争とが冨と名声に結びついたことよる闘争の激化に加え、大規模で強大な部族連合の隆盛が生じた。ネズ・パース族とカイユース族は大規模な馬群を維持し、毎年[[グレートプレーンズ|大平原]]へ長距離遠征を行って[[アメリカバイソン|バイソン]]を狩猟し続け、大平原文化を大きく取り入れていくこととなった。そして、こういった部族を通して、コロンビア川流域に馬と大平原文化が広まっていった。他の部族における馬と大平原文化の浸透程度は様々だった。ヤカマ族やユーマティラ族、パルース族、スポケーン族、クーダレン族はかなり大規模な馬群を維持し、大平原文化の特徴を一部取り入れているが、漁業関連経済の重要性は変わらなかった。{{仮リンク|モララ族|en|Molala people}}と{{仮リンク|クリキタット族|en|Klickitat people}}、{{仮リンク|ウェナチー族|en|Wenatchi}}、{{仮リンク|オカナガン族|en|Okanagan people}}、{{仮リンク|シンカイユース族|en|Sinkiuse-Columbia}}といったあまり影響を受けなかった部族は、小規模な馬群を確保しただけでほとんど大平原文化の影響を受け入れなかった。全く影響を受けること無く留まった部族も複数あり、{{仮リンク|サンポイル族|en|Sanpoil tribe}}や{{仮リンク|ネスペレム族|en|Nespelem tribe}}は漁業を中心とした文化を保ちつづけた<ref name=greatcolumbiaplain/>。
 
18世紀から19世紀にかけて、この地域の先住民族は、幾度と無く様々な場所で異邦人と遭遇することとなった。ヨーロッパ人とアメリカ植民地からの船舶が、18世紀末には河口周辺の沿岸地域へ探検に訪れ、現地の部族と交易を行った。この関わりが先住民に大打撃を与えたことは間違いない。[[天然痘]]が流行し、人口の激減が生じたのだ。カナダの探検家、[[アレグザンダー・マッケンジー (探検家)|アレグザンダー・マッケンジー]]は1793年に、現在ブリティッシュコロンビア州内陸部と呼ばれる地域を横断した<ref name=DallesPpl12/>。1805年から1807年にかけて、[[ルイス・クラーク探検隊]]が{{仮リンク|クリアウォーター川|en|Clearwater River (Idaho)}}とスネーク川に沿って[[オレゴン・カントリー]]に到来し、多くの部族の小規模な集落を訪れた。彼らの記録には訪問者からちょっとした用品をかすめとることを恥とも思わない、持てなしの良い商人の話が残されている。また彼らは、沿岸地域の部族との交易で入手した真鍮の薬缶や英国製のマスケット銃などといった工芸品を記録している<ref name=emptynets>