「グライヴィッツ事件」の版間の差分

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[[1939年]][[8月31日]]夜、ナウヨックスに率いられた1団のドイツ工作員がグライヴィッツのラジオ局を襲撃し、[[シレジア|シュレジェン]]地方のポーランド系住民に向けてポーランド語でドイツに対する[[ストライキ]]を呼びかけた。ドイツの目的は、この襲撃と放送を反ドイツ的ポーランド系住民の暴徒の仕業によるものに見せかけることだった。
 
この襲撃場面をよりそれらしく見せるため、ナウヨックスの部隊は[[フランチシェック・ホニオック]](Franciszek Honiok)を連れてきていた。当時44歳のホニオックはドイツ系[[シレジア人]]で、ポーランド人に好意的な人物と看做され前日に[[ゲシュタポ]]によって逮捕されていた。ホニオックはポーランド軍の工作員のような服装をさせられ、致死量の毒物を注射され、銃で撃たれた。ちなみに、ホニオックが着せられたポーランド軍風の服を調達したのは[[オスカー・シンドラー]]である。遺体は現場のラジオ局に残され、あたかも彼がラジオ局を襲撃した際に殺されたように見せかけられた。後に遺体はドイツの[[警察]]と[[報道機関|マスコミ]]に提示され、ポーランド側による襲撃の証拠とされた。ホニオックに加えて、他に数人の囚人がこの目的に使用されるために準備されていた。
 
ドイツはこの襲撃計画を''Konserve''('''缶詰''')という[[暗号名]]で呼んでいた。このため、一部ではこの事件を「缶詰事件」と読んでいるが、その表現は正確ではない。
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グライヴィッツ襲撃と同じとき、ポーランド・ドイツ国境沿いでは、[[ポーランド回廊]]地方における放火や、偽の[[プロパガンダ]]など、ドイツによって巧みに仕組まれた他の複数の事件が起きていた。すべてのプロジェクトはまとめて「ヒムラー作戦」と称され、これは全部で21件の事件からなるが、この作戦はドイツに対するポーランドの不当な攻撃を仕立て上げるのが目的であった。
 
グライヴィッツ襲撃の翌日の[[1939年]][[9月1日]]に、ドイツは'''白の場合'''(''Fall Weiß'')、すなわち[[ポーランド侵攻]]作戦を発動した。[[ヨーロッパ]]における[[第二次世界大戦]]の始まりである。[[アドルフ・ヒトラー]]は臨時国会議事堂にあてられた[[クロールオペラ劇場]]での演説でこれら21件の事件に触れ、ポーランドへの[[自衛権]]行使はドイツの正当な行動であるとした。
 
== 関連項目 ==