「飯塚盈延」の版間の差分

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== 略歴 ==
1902年に愛媛県[[周桑郡]][[小松町_(愛媛県)|小松町]]に生まれ、[[1909年]][[尋常小学校]]に入学。成績が良く[[天才]]と呼ばれた。[[1918年米騒動|米騒動]]などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、[[渡辺政之輔]]が率いていた東京合同組合に身を投じることで労働運動にかかわっていった。その後、若手の労働運動活動家として[[第二次共産党 (日本)|日本共産党(第二次)]]の派遣により、[[モスクワ]]の[[東方勤労者共産大学]](クートヴェ)に留学した(留学中の変名は「フョードロフ」)。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され[[転向]]したうえで警察のスパイになったとされる。そして松村(飯塚)はスパイとして党に潜入、[[非常時共産党]]時代の共産党で家屋資金局の責任者となり、「[[赤色ギャング事件|赤色ギャング]]」に代表されるさまざまな権力挑発的方針を指示した。その後[[熱海事件]]で共産党の代表者達を一斉検挙に追いやった。
 
松村がスパイであることは、同じクートヴェ帰りであった[[風間丈吉]]委員長を始めとする党の幹部から全く感づかれることはなく、一般党員も彼の過激な活動方針にほとんど疑いを抱くことなく従っていた。しかし熱海事件前後の一斉検挙後、取り調べや公判などで松村の名が出てこないことに不審をもった党員たちは、彼が警察のスパイではないかと考えるようになった。
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