「古海卓二」の版間の差分

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紅沢が[[横浜市|横浜]][[山下町 (横浜市)|山下町]](現在の同市[[中区 (横浜市)|中区]][[元町 (横浜市)|元町]]一丁目)の映画会社[[大正活動映画]]の撮影所に入社、原作・脚本[[谷崎潤一郎]]、監督[[トーマス・栗原]]による設立第1作『アマチュア倶楽部』に出演するころには、[[本牧]]に居を構えた。同社の撮影所には20歳前後の俳優たちが入社したばかりで、のちの映画監督[[内田吐夢]]や[[二川文太郎]]、[[井上金太郎]]、[[横田豊秋]]、また[[竹村信夫]]、高橋英一(のちの[[岡田時彦]])、[[江川宇礼雄|江川宇禮雄]]、[[鈴木すみ子]]、[[渡辺篤 (俳優)|渡邊篤]]らが「獏与太平」の家に集った<ref name="古海" />。
 
[[1921年]](大正10年)、大正活映の原島本太郎プロデュースのもと新宗教[[大本]]の[[出口王仁三郎]]の検挙に取材した『大本教・伏魔殿』で映画監督に転向、浅草「駒形劇場」で公開してヒットとなる<ref name="古海" />。同年9月に大正活映が製作を休止し撮影所を閉鎖すると、「獏与太平」は、紅沢や内田、二川、井上、渡辺、江川らの俳優陣を引き連れて、同時期に設立された[[京都]]の「[[牧野教育映画製作所]]」に合流する。このとき獏与太平こと古海卓二27歳であった。
 
=== 映画作家時代 ===
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