「モンゴル系民族」の版間の差分

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===ジュンガル帝国===
[[17世紀]]、ダヤン・ハーンの一族によって打倒されたオイラト部族連合はモンゴル西部~[[ジュンガル盆地]]におり、その盟主は[[ドルベト部]]で、ドルベト部の左翼を担っていたのが、[[ジュンガル]]部であった。やがてオイラト部族連合はモンゴルの[[ハルハ]]部を破って独立を果たしたが、新たなオイラト盟主[[ホシュート]]部で内乱がおこると、オイラトの[[トルグート]]部は内乱を避けて遥かヴォルガ河畔へ避難し、これが現在の[[カルムィク人]]となる。ホシュート部の内乱を収束し、新たな部族長になったのが[[グーシ・ハーンで]]あった。彼は[[チベット仏教]]の[[ゲルク派]]を擁護し、施主として[[青海]]に本拠を置いた。これが[[青海ホショト]]部となり、現在の[[オイラド族]]となる。一方、盟主がいなくなったオイラト本国はジュンガル部族長の[[バートル・ホンタイジ]]に任され、ジュンガル部が新たな盟主となり、次の[[ガルダン・ハーン]]の代でモンゴルを破って最大版図を実現し、ジュンガル帝国と呼べる政権を築く。1755年、清朝の侵攻によりジュンガルの帝国は崩壊し、その支配下に入ったが、[[天然痘]]の流行によりジュンガルの移民はほぼ全滅した。後に無人地帯となったイリ地方にヴォルガ河畔から一部のトルグート部が帰還した。これも現在のオイラド族となる。<ref>宮脇 2002,p188-213</ref>
 
===外モンゴル(ハルハ)と内モンゴル(チャハル)===