「イザベラ・バード」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 誤記修正。
誤記修正。内部リンクを追加。年号を追加。
37行目:
[[ファイル:Isabella Bird Bishop Manchurian.jpg|thumb|200px|満州民族の衣装を着たバード]]
 
'''イザベラ・ルーシー・バード'''({{lang|en|Isabella Lucy Bird}}, [[1831年]](天保2年)[[10月15日]] - [[1904年]](明治37年)[[10月7日]])は、19世紀の[[大英帝国]]の旅行家、探検家、[[旅行作家|紀行作家]]<ref name="ODNB">{{Citation|author=Middleton, Dorothy |title=Bishop [Bird], Isabella Lucy (1831–1904) |journal=Oxford Dictionary of National Biography |publisher=Oxford University Press |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/31904}}</ref>、写真家<ref name="NLS">{{cite web|title=Isabella Bird (1831–1904)|url=http://digital.nls.uk/jma/who/bird/|work=The John Murray Archive|publisher=National Library of Scotland|accessdate=2014-03-16}}</ref>、ナチュラリスト<ref>{{Citation|last=Ogilvie|first=Marilyn Bailey|title=Women in science : antiquity through the nineteenth century : a biographical dictionary with annotated bibliography|year=1986|publisher=MIT Press|location=Cambridge, Mass.|isbn=978-0-262-65038-0|pages=38|edition=Reprint.}}</ref>。{{仮リンク|ファニー・ジェーン・バトラー|en|Fanny Jane Butler}}と共同で、[[インド]]の[[ジャンムー・カシミール州]][[シュリーナガル]]にジョン・ビショップ記念病院を設立した<ref>{{Cite web| title = Health Care Institutes - John Bishop Memorial Mission Hospital, Kashmir| work = Diocese of Amritsar| accessdate = 2015-04-21| url = http://www.amritsardiocesecni.org/john-bishop-hospital.html}}</ref>。バードは女性として最初に[[王立地理学会|英国地理学会]]特別会員に選出された<ref name="Times Obit">{{Citation|title=Mrs Bishop|journal=The Times|date=1904-10-10|series=Obituaries|issue=37521|pages=4|location=London, England}}</ref>。1881年(明治14年)に妹の侍医であったジョン·ビショップと結婚し、'''イザベラ・バード・ビショップ'''({{lang|en|Isabella Bird Bishop}})、ビショップ夫人とも称された<ref>イザベラバード『伝記ノート』、ハワイ諸島、電子ブック、(2004)</ref>。
 
== 略歴 ==
イギリス・[[ヨークシャー]]で牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[カナダ]]を旅し、[[1856年]](安政3年)、{{lang|en|"''The Englishwoman in America''"}}を書いた。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。[[1893年]](明治26年)、[[王立地理学会|英国地理学会]]特別会員となる。
 
[[1878年]](明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った[[伊藤鶴吉]]を供とし、[[東京]]を起点に[[日光市|日光]]から[[新潟県|新潟]]へ抜け、日本海側から北海道に至る[[北日本]]を旅した(所々で現地ガイドなどを伴うこともあった)。また10月から[[神戸市|神戸]]、[[京都市|京都]]、[[伊勢市|伊勢]]、[[大阪市|大阪]]を訪ねている。これらの体験を、[[1880年]](明治13年)、{{lang|en|"''Unbeaten Tracks in Japan''" }}2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。この中で、英国公使[[ハリー・パークス]]、後に[[明治学院]]を設立するヘボン博士([[ジェームス・カーティス・ヘボン]])、[[同志社]]のJ.D.デイヴィスと新島夫妻([[新島襄]]・[[新島八重]])らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、[[1885年]](明治18年)に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される<!--(『日本奥地紀行』はこの普及版の翻訳である)-->。本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、[[アイヌ]]の生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。
 
また、[[清国]]、[[クルディスタン]]、[[ペルシャ]]、[[チベット]]を旅し、さらに[[1894年]](明治27年)から[[1897年]](明治30年)にかけ、4度にわたり末期の[[李氏朝鮮]]を訪れ、旅行記{{lang|en|"''Korea and Her Neighbours''"}}(『[[朝鮮紀行]]』)を書いている。
[[ファイル:The grave of Isabella Bird, Dean Cemetery.jpg|thumb|ディーン墓地のイザベラ・バードの墓碑]]
 
中国への再度の旅行を計画していたが、[[1904年]](明治37年)に73歳の誕生日を前にして[[エディンバラ]]で死去した。同地のディーン墓地に埋葬されている。
 
==『日本奥地紀行』==
[[1878年]](明治11)611年)6月から9月にかけ『日本奥地紀行』は執筆され、[[1880年]](明治13年)に{{lang|en| "''Unbeaten Tracks in Japan''"}}(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)として刊行された。冒頭の「はしがき」では「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、また「西洋人のよく出かけるところは、日光を例外として詳しくは述べなかった」と記し、この紀行が既存の日本旅行記とは性格を異にすることを明言している<ref>{{Harvtxt|バード|1973|pp=xiii-xvi}}</ref>。
 
[[栃木県]][[壬生町]]から[[鹿沼市]]の[[日光杉並木]]に至る[[例幣使街道]]では、よく手入れされた[[大麻]]畑や街道沿いの景色に日本の美しさを実感したと書いている。また[[日光市|日光]]で滞在した[[日光金谷ホテル|金谷邸(カナヤ・カッテージ・イン)]]にはその内外に日本の牧歌的生活があると絶賛し、ここに丸々2週間滞在して[[日光東照宮]]をはじめ、日光の景勝地を家主金谷善一郎および通訳の伊藤とともに探訪する。<ref>{{Harvtxt|バード|2008b|pp=113-158}}</ref>
66行目:
 
== 『朝鮮紀行』 ==
最初の朝鮮訪問は[[1894年]](明治27年)。以降3年のうちに、バードは4度にわたり朝鮮各地を旅し、『[[朝鮮紀行]]』を記した。『朝鮮紀行』は、国際情勢に翻弄される李氏朝鮮の不穏な政情、伝統的封建的伝統、文化など、バードがじかに見聞きした朝鮮の情勢を伝える。
 
筆者の犀利な観察眼と朝鮮の資料としての評価より、[[1925年]](大正14年)に日本国内でも抄訳され、『三十年前の朝鮮』の書名で出版された<ref>{{Harvtxt|バード|1925}}</ref>。
 
以下、『朝鮮紀行』より。
{{main|朝鮮紀行}}
 
[[釜山]]に上陸したバードは、高台にある[[外国人居留地]]の周りの杉林が[[1592年]]からの[[文禄・慶長の役]]の際に[[豊臣秀吉]]日本軍による植林によるものと記し、また釜山の旧市街が同じく[[文禄・慶長の役]]の占領の際に、日本人によって手がけられたと記している。「砦はとても古いものの、中の市街は三世紀前の構想に沿って日本人の手によって近代化されている」<ref>{{Harvtxt|バード|1998|pp=46-50}}</ref>。
[[ファイル:Korea and Her Neighbours.png|thumb|200px|『[[朝鮮紀行]]』の中の1ページ]]
バードは[[韓国併合]]以前の当時の[[ソウル特別市|ソウル]]に関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「[[紹興市|紹興]]へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している<ref>{{Harvtxt|バード|1998|pp=58-60}}</ref>。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記しており<ref>{{Harvtxt|バード|1998|pp=169 f}}</ref>、ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている<ref>{{Harvtxt|バード|1998|p=85}}</ref>。他方、[[金剛山 (朝鮮)|金剛山]]の長安寺では「天国にいるような心地の二日間」を過ごすことができたと賞賛している<ref>{{Harvtxt|バード|1998|loc=11章}}</ref><ref>[http://www.norihuto.com/kumgang-old-tyouan.htm 19世紀末~日本植民地時代の長安寺について]</ref>。また[[貨幣]]・[[通貨]]の流通については、銀行が町にないと記しており、また日本の円がソウルと条約港で通用したことを記している<ref>{{Harvtxt|バード|1998|pp=93 f}}</ref>。
 
そして[[日清講和条約]]で日本が朝鮮の独立を成し遂げて実質的な日本の保護国とした3年後の1897年(明治30年)にバードがソウルを再訪した際の体験によると、ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、1897年(明治30年)から税関長[[ジョン・マクレヴィ・ブラウン]]の提案のもとに、市内環境改善を行なっており、「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている!(講談社学術文庫版p545)!<ref name="kodansha1998.p=545">{{Harvtxt|バード|1998|p=545}}</ref>」「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔極まりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている(同頁)<ref name="kodansha1998.p=545" />」と記載し、改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない(同p546)」と記しており、ここでも日本についての言及と同様に、肯定的な側面と否定的な側面双方を多面的に記述している。
 
朝鮮とロシア国境部の[[沿海州]]では水路が整備され、衛生にも配慮され、家屋は朝鮮半島におけるものより立派だとし、「朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望み無しと考えていた」がその考えを正すべきかもしれないとしている<ref>{{Harvtxt|バード|1998|pp=305-307}}</ref>。