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==選手経歴(〜1985年ジュニア時代まで)==
===幼少期〜慶應義塾時代 ===
[[阪急電鉄]]や[[宝塚歌劇団]]などの[[阪急東宝グループ]]創始者の[[小林一三]]の
8歳の頃に、既にテニスをしていた三歳年上の姉・敏子<ref name="takara">『別冊1億人の昭和史 タカラヅカ 華麗な舞台とスターを育てた70年』、毎日新聞社、1981年、P195最下段 ご無沙汰しています いま、私は…IIにおける母親・千波静の近況報告から</ref>を見てテニスに興味を持ち、一歳年上の兄・松岡宏泰<ref name="takara">『別冊1億人の昭和史 タカラヅカ 華麗な舞台とスターを育てた70年』、毎日新聞社、1981年、P195最下段 ご無沙汰しています いま、私は…IIにおける母親・千波静の近況報告から</ref>と共にテニスを始める<ref>[[#松岡(1998)|松岡]]、p.86</ref><ref name="BUNKA"/>。当時の松岡は身長も低く丸々と太った体型で、周囲の大人達に悪戯をして回るような腕白坊主であり、一方、兄の宏泰はそんな弟とは対照的にいつも温厚で礼儀正しい子供で、体格にも恵まれて(宏泰が高校に入学した頃は修造より20cmも身長が上であった)、テニスセンスも抜群だった為に、周囲のテニスコーチは宏泰に注目して、より高度な指導を行なっていた<ref>[[#松岡(1998)|松岡]]、p.87</ref>。当然松岡もコーチに「自分にも教えて欲しい」とせがむも、コーチから返ってくるのは「修ちゃんは、ガッツがあっていいよ。」と言った慰めの言葉程度であったという(松岡自身も後年に至るまで自身のテニスにおける素質の無さを自認しており、むしろテニスに関して自分よりも遥かに世界に通用する素質を有していたのは兄のほうであったと述懐している<ref>[[#松岡(1998)|松岡]]、p.88</ref>)。
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