「ジョン・フォーブズ・ケリー」の版間の差分
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== 兵役 ==
ケリーは1966年2月18日に海軍予備役に
1967年6月8日にミサイル・フリゲート[[グリッドレイ (ミサイル巡洋艦)|グリッドレイ]] (''{{Lang|en|USS Gridley, DLG-21}}'') の技術士官として着任、1968年2月9日にグリッドレイは西太平洋に向けて出航した。翌日ケリーは[[ベトナム]]での哨戒艇任務を志願した。グリッドレイは[[ニュージーランド]]のウェリントン、[[フィリピン]]のスービック湾から[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]の[[トンキン湾]]で[[航空母艦]]の支援を行い、接敵することもなく6月6日には[[カリフォルニア州]]ロングビーチに帰港した。
10日後の6月16日にケリーは中尉に昇進し<ref name="records"/>、哨戒艇の艇長として訓練を受け、12月6日には南ベトナムの[[カムラン湾]]で高速哨戒艇PCF-44の艇長として任務に就いた。この間、12月2日夜間から3日朝にかけて、敵に遭遇し、ケリーは左肘上にM-79グレネードの破片を受けた。ケリーを手当てしたルイス・レットソン医師は彼のクルーが[[衛生兵]]にケリーのことを「マサチューセッツからの次のJFKだ」「いつか大統領になる」と話していたことを思い出す。この負傷でケリーは初めての[[パープルハート章]]を受章し、その後任務に復帰した。
ケリーはイェールでのクラスメート、リチャード・パーシングを含む5名の友人をベトナムで失った。1969年2月28日にボーデ川で再び榴散弾の破片を左腿に受け、二度目の名誉負傷章を得た。医師は破片を切除するのに大きく切開せずそのまま縫合処置をしたため、ケリーは未だに左腿に破片を持っている。
ベイハプ川
ケリーはメディロスとともに敵兵
3月13日にケリーの艇は[[機雷]]に接触すると共に激しい銃撃を受けた。左上[[臀部]]に[[榴散弾]]の破片を受け、回復まで二日を要した。この負傷と、グリーンベレー隊員ジェームズ・ラスマンの救出活動でケリーは三度目の[[パープルハート章]]と[[ブロンズスターメダル]]を受章した。
ケリーは三度の負傷後に帰国した。ケリーのベトナムでの任務は4月前半に終了し、その後
批評家はケリーの最初の負傷を、[[バシトラシン剤]]と[[包帯]]による治療のみで任務に復帰したことで、名誉負傷章に相当しないのではないかと批判している<ref>[http://www.boston.com/news/nation/articles/2004/04/14/kerry_faces_questions_over_purple_heart/]</ref>。
== 反戦活動 ==
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