「ダフト・パンク」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[1987年]]、パリの学生だったトーマとギ=マニュエルが知り合い、2人とも[[ジミ・ヘンドリックス]]や[[モータウン]]・ミュージックといった[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ソウル・ミュージック]]に興味を持っていたために意気投合する。[[1990年]]にはクラスメイトであった[[{{仮リンク|ローラン・ブランコウィッツ]]|en|Laurent_Brancowitz}}(現・[[フェニックス (バンド)|フェニックス]]のギタリスト・キーボディスト)と共に「ダーリン」という[[バンド (音楽)|バンド]]を結成し、 [[ステレオラブ]]の[[レコードレーベル|レーベル]]から数曲を[[発売|リリース]]した。ある日、このステレオラブの[[前座]]を務めたダーリンに対して、[[イギリス]]の音楽誌{{仮リンク|メロディ・メーカー([[:|en:Melody Maker]])|Melody_Maker}}は、[[レビュー]]で「ダフト(愚かな)パンク」と酷評。ところが2人はこの言葉を気に入り、自分たちの新たなユニット名にする。[[1993年]]にローランが音楽性の相違からバンドを脱退したのを機に、本格的にハウス・ミュージックへと方向性を転換した。
 
ダフト・パンクとしてのデビューシングル『ニュー・ウェイヴ』に続いて、[[1995年]]にはシングル『ダ・ファンク (Da Funk)』をリリース。これが[[ヨーロッパ]]を中心に大ヒットとなり、世界的に知られるハウスユニットとなった。『ダ・ファンク』は[[スパイク・ジョーンズ]]がミュージック・ビデオを[[監督]]し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも大量にオンエアされたため、初の[[フルアルバム]]『ホームワーク (Homework)』([[1997年]])はアメリカでも大きな成功を収めた。[[クラブ (曖昧さ回避)|クラブ]]系アーティストとしては異例の全世界で220万枚のビッグセールスを記録し、これがヨーロッパとアメリカを回る大規模なライブ[[ツアー]]「Daftendirektour」に乗り出すきっかけとなる。ちなみに、同アルバムから[[シングルカット]]されている『アラウンド・ザ・ワールド (Around The World)』のミュージック・ビデオは、[[ビョーク]]や[[レディオヘッド]]、[[ケミカル・ブラザーズ]]などの[[プロモーションビデオ|PV]]も手掛けた気鋭の映像作家、[[ミシェル・ゴンドリー]]が監督している。