「はちみつぱい」の版間の差分

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1971年8月、鈴木慶一、[[渡辺勝 (音楽家)|渡辺勝]]、本多信介の3名で[[第3回全日本フォークジャンボリー]]に出演。これをきっかけに和田博巳が加入。1971年秋頃にはセッションを通じて武川雅寛が、オーディションにてかしぶち哲郎が加入し主要メンバーが出揃う。[[1972年]]春頃、表記を'''はちみつぱい'''に改めた。1972年5月、[[春一番 (コンサート)|春一番コンサート]]に出演。1972年9月、渡辺勝が脱退し、これに入れ替わる形でペダルスティールの駒沢裕城が加入。ヴァイオリンの武川と共に、はちみつぱいのサウンドを独特なものとした。
 
[[1973年]][[101125日]]、ファーストアルバム『センチメンタル通り』を発売。続いて[[1974年]]5月にはシングル『君と旅行鞄(トランク)』を発売するも、1974年[[11月20日]]、山野ホールでのコンサートを最後に解散した。駒沢の失踪事件などをきっかけに、鈴木とメンバー間の音楽性の相違による不満が高まったのが原因の一つとされている。コンサートでの最後の曲は『塀の上で』。鈴木の最後の言葉は、「さよならロックンロール少年、ロックンロール少女」だった。メンバーのうち、鈴木、武川、かしぶち、岡田、椎名は後に[[ムーンライダーズ]]を結成した。
 
[[1988年]][[6月9日]]、汐留PITにて1日限りの再結成コンサートを開催。ゲストにはあがた森魚、[[斉藤哲夫]]、[[高田渡]]らが出演し、はちみつぱいをバックに歌った。このコンサートでも『塀の上で』を演奏し、鈴木は「さよならロックンロールおじさん、ロックンロールおばさん」との言葉を残した。この日を最後に、はちみつぱいは完全に解散した。
[[1974年]][[6月25日]]、ワーナー・パイオニア(現[[ワーナーミュージックジャパン]])の[[エレクトラ・レコード#エレクトラ・レーベルの邦楽アーティスト|エレクトラ・レーベル]]からシングル「君と旅行鞄(トランク)」が発売される。当初はちみつぱい側は『酔いどれダンス・ミュージック』をシングル曲に推したが、売れないと言われてB面収録となった。ワーナー・パイオニア側は「ぼくの倖せ」をシングル曲に推した。しかし、鈴木慶一はそのままでやりたくないと作詞を[[松本隆]]に依頼するも気に入らなかった為、鈴木自ら歌詞を書き直した。元々シングルとして出るはずだった曲はアルバム「センチメンタル通り」に収録されている「ぼくの倖せ」(規格番号はOF-19が当てられていた。(B面は「僕の倖せ」同様「センチメンタル通り」収録の「薬屋さん」を収録予定だった。)だったが、諸事情で発売中止になっていた。
 
[[1988年]][[6月9日]]、汐留PITにて1日限りの再結成コンサートを開催。ゲストにはあがた森魚、[[斉藤哲夫]]、[[高田渡]]らが出演し、はちみつぱいをバックに歌った。このコンサートでも『塀の上で』を演奏し、鈴木は「さよならロックンロールおじさん、ロックンロールおばさん」との言葉を残した。
 
[[2015年]][[12月20日]]、[[メルパルクホール]]で行われた鈴木慶一のミュージシャン生活45周年記念ライブで27年ぶりに再結成。
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=== シングル ===
*君と旅行鞄(トランク)(1974年6月25日)
**B面は酔いどれダンス・ミュージック。録音エンジニアとして[[大瀧詠一]](笛吹銅次名義)が参加。「君と旅行鞄(トランク)」は、「センチメンタル通りがCD化した際にB面の「酔いどれダンス・ミュージック」と共に追加収録されてCD化された。<br />尚、このシングルはワーナーパイオニア(現[[ワーナーミュージックジャパン]])に移籍後にリリースされた。<br />当初はちみつぱい側は『酔いどれダンス・トラミュージック』をシングル曲に推したが、売れないと言われてB面収録となった。<br />ワーナーパイオニア側は「ぼくの倖せ」をシングル曲に推した。しかし、鈴木慶一はそのままでやりたくないと作詞を[[松本隆]]に依頼するも気に入らなかった為、鈴木自ら歌詞を書き直した。<br />元々シングルとしてCD化出るはずだった曲はアルバム「センチメンタル通り」に収録されている「ぼくの倖せ」(規格番号はOF-19が当てられてい。(B面は「僕の倖せ」同様「センチメンタル通り」収録の「薬屋さん」を収録予定だった。)だったが、諸事情で発売中止になっていた。
 
=== スタジオ・アルバム ===