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{{Battlebox|
battle_name=荒山合戦
|campaign=
|image =
|caption =
|conflict = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
|date = 1582年7月
|place = 出羽国田川郡(現在の山形県鶴岡市)
|result=上杉軍の勝利
|combatant1 = 上杉・武藤連合軍
|combatant2 = 最上軍(庄内地方土豪)
|commander1 = [[本庄繁長]]<br>[[大宝寺義勝]]
|commander2 = [[東禅寺義長]]<br>[[東禅寺勝正]]<br>[[池田盛周]]<br>草刈虎之助
|strength1 = 不明(数千人)
|strength2 = 不明
|casualties1 = 不明
|casualties2 = 不明(2500人討死とも) 
|}}
 
'''十五里ヶ原の戦い'''(じゅうごりがはらのたたかい)は、[[天正]]16年([[1588年]])8月、[[本庄繁長]]率いる[[上杉景勝|上杉]]・[[大宝寺義勝|武藤]]連合軍と[[東禅寺義長]]・[[東禅寺勝正|勝正]]兄弟率いる[[最上義光|最上]]軍との戦である。
 
== 背景 ==
[[出羽国]][[庄内地方]]は[[大宝寺氏|大宝寺氏(大宝寺武藤氏)]]が代々支配していたが、戦国時代には相次ぐ家中の内乱に悩まされていた。またこの地域は[[庄内平野]]や[[酒田市|酒田]]湊を抱えており経済的価値が高く、周囲の[[上杉氏]]や[[最上氏]]、[[小野寺氏]]などが獲得を狙っていた。
 
1580年代、急速に領土を拡大していた[[山形城]]主[[最上義光]]の攻勢がついに庄内にも及ぶようになると、[[尾浦城]]主[[大宝寺義氏|大宝寺義氏(武藤義氏)]]は父・[[大宝寺義増|義増]]の代からの盟友[[本庄繁長]]の支援を受けてこれに対抗した。[[天正]]11年([[1583年]])、義光は武藤氏重臣・[[東禅寺城]]主[[東禅寺義長]]を利用して義氏を暗殺。[[天正]]15年([[1587年]])11月には家督を継いだ弟の[[大宝寺義興|義興]]をも攻め殺した。庄内を手に入れた義光は、東禅寺氏にこの地の統治を命じた。この時、義興の養子となっていた本庄繁長の子・[[大宝寺義勝|義勝]]は実父の下に逃れて捲土重来を誓った。これ以後、大宝寺氏は上杉の完全な影響下に置かれることになる。
 
翌天正16年([[1588年]])1月、最上家の本家にあたり正室の実家でもある[[大崎氏]]の内紛に[[伊達政宗]]が武力介入すると([[大崎合戦]])、義光は政宗を討つべく大崎領に援軍を派遣し、同時に伊達領に出兵して各地を攻略した。義光が政宗との戦に忙殺されているのを好機と見た[[上杉景勝]]は、庄内占領のため兵を動かした。
 
== 展開 ==
8月、上杉景勝は本庄繁長・大宝寺義勝に尾浦城攻撃を命じる。一方の東禅寺兄弟は野戦での迎撃を決め、両者は十五里ヶ原で対峙した。
 
合戦開始当初は両軍互角の状況だったが、次第に数で劣る最上軍が追いつめられていき、東禅寺義長は敵本陣に突撃し戦死。兄戦死の報を受けた勝正もまた単身本陣へ突入し、不意をついて本庄繁長に斬りかかったが逆に繁長と側近達に討ち取られた。勝正の一撃で繁長の兜はこめかみから耳の下まで切り取られたという。この時勝正が手にしていたのが名刀[[正宗]]で、本庄繁長の手に渡ったことから'''本荘(本庄)正宗'''と言われるようになったという。後に本庄正宗は複数の所有先を経て、最終的に[[徳川将軍家]]へ献上され、その第一の家宝とされた。しかし、[[第2次大戦]]後に占領軍に没収され、[[1946年]]にとある米兵が持ち去って以来行方不明である。また、[[村上市]]郷土資料館の所蔵する'''六十二間星兜'''がこの時に本庄繁長の着用していた兜とされる。伝承のように切り取られてはいないが、額右側に刀傷がついている。
 
この後、最上軍は[[朝日山城]]などで抵抗を続けたが敗れ([[朝日山城の戦い]])、庄内地方は上杉景勝の版図となる。繁長は余勢を駆ってさらに兵を進めたが、東根で最上勢の猛反撃に遭い撤退した。
 
== 戦後 ==
この戦が起きたのは、天正15年(1587年)12月の[[豊臣秀吉]]による奥羽[[惣無事令]]の発令後であり、本来この出兵は認められないはずであった。ところが秀吉は大宝寺義勝の庄内復帰を黙認した。さらに、天正18年([[1590年]])8月23日、上杉氏によって執行された庄内地方での[[太閤検地]]に抵抗する[[藤島一揆]]が勃発し、翌天正19年([[1591年]])に一揆煽動の容疑により義勝が改易された後<ref>大宝寺義勝改易の理由は、あくまでも藤島一揆煽動の容疑であり、十五里ヶ原の戦いが問題とされたのでは無かった。</ref>、庄内を与えられたのは上杉景勝であった。この裁定と[[豊臣秀次#秀次事件|秀次事件]]における[[駒姫]]の死とが重なって、最上義光は秀吉や上杉氏に対して深い疑念と憎悪の念を抱き、[[関ヶ原の戦い]]で[[徳川家康]]に味方する原因となったとする説がある。
 
最上義光が上杉から庄内を奪還するのは、[[慶長]]6年([[1601年]])4月になる。
 
== 出典 ==
*『奥羽斯波氏諸列記』
*『天正奥羽合戦記』
*『[[奥羽永慶軍記]]』
*『山形藩』
*『北天の巨星最上義光』
 
== この戦を題材とした作品 ==
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 外部リンク ==
*[http://www.k3.dion.ne.jp/~kinbou3/15rigawarapage7.index.html 十五里ヶ原の戦い]
 
{{デフォルトソート:しゆうこりかはらのたたかい}}
[[category:安土桃山時代の戦い]]
[[category:出羽国|戦しゆうこりかはら]]
[[Category:1582年の日本]]