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|casualties2 = 不明(2500人討死とも) 
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'''十五里ヶ原の荒山合'''(じゅうごりがはのたたやまっせん)は、[[天正]]1610年([[15881582年]])8)7月、[[本庄繁長]]率いる[[上杉景勝|上杉佐久間盛政]]・[[大宝寺義勝|武藤前田利家]]率いる連合軍と[[東禅寺義長上杉景勝]]・[[東禅寺勝正温井景隆|勝正景隆]]兄弟率いる[[最上義光|最上]]連合軍との戦である。
 
== 背景 ==
天正10年(1582年)6月2日に織田信長が本能寺の変で明智光秀の襲撃により自害する。
[[出羽国]][[庄内地方]]は[[大宝寺氏|大宝寺氏(大宝寺武藤氏)]]が代々支配していたが、戦国時代には相次ぐ家中の内乱に悩まされていた。またこの地域は[[庄内平野]]や[[酒田市|酒田]]湊を抱えており経済的価値が高く、周囲の[[上杉氏]]や[[最上氏]]、[[小野寺氏]]などが獲得を狙っていた。
 
石動山衆徒は、前々から寺領を削減した信長に対して密かに奪回を画策して、越後国の上杉景勝に支援を求め、上杉氏に保護されていた畠山氏遺臣である温井景隆と三宅長盛の兄弟が派遣され、6月23日の夜半にはこの荒山砦に入って要害を築き始める。ここぞとばかり上杉方の助勢を得て越後から戻ってきた畠山の旧臣・温井景隆・三宅長盛兄弟と組み、前田利家を勢いに乗って葬ろうとした。さらに本能寺の変で旧武田領で一揆が起こり、信長から統治を任されていた滝川一益らが次々と逃走して越後侵攻の恐れが無くなったこともあり、上杉景勝も能登を奪回しようと侵攻を開始する。
1580年代、急速に領土を拡大していた[[山形城]]主[[最上義光]]の攻勢がついに庄内にも及ぶようになると、[[尾浦城]]主[[大宝寺義氏|大宝寺義氏(武藤義氏)]]は父・[[大宝寺義増|義増]]の代からの盟友[[本庄繁長]]の支援を受けてこれに対抗した。[[天正]]11年([[1583年]])、義光は武藤氏重臣・[[東禅寺城]]主[[東禅寺義長]]を利用して義氏を暗殺。[[天正]]15年([[1587年]])11月には家督を継いだ弟の[[大宝寺義興|義興]]をも攻め殺した。庄内を手に入れた義光は、東禅寺氏にこの地の統治を命じた。この時、義興の養子となっていた本庄繁長の子・[[大宝寺義勝|義勝]]は実父の下に逃れて捲土重来を誓った。これ以後、大宝寺氏は上杉の完全な影響下に置かれることになる。
 
翌天正16年([[1588年]])1月、最上家の本家にあたり正室の実家でもある[[大崎氏]]の内紛に[[伊達政宗]]が武力介入すると([[大崎合戦]])、義光は政宗を討つべく大崎領に援軍を派遣し、同時に伊達領に出兵して各地を攻略した。義光が政宗との戦に忙殺されているのを好機と見た[[上杉景勝]]は、庄内占領のため兵を動かした。
 
== 展開 ==