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{{Portal クラシック音楽}}
'''ブルーノ・マデルナ'''('''Bruno Maderna''', [[1920年]][[4月21日]] - [[1973年]][[11月13日]])は[[イタリア]]の[[現代音楽]]の[[作曲家]]・[[指揮者]]。
== 略歴 ==
[[ヴェネチア]]に生まれる。最初[[ローマ]]の音楽院で[[ピアノ]]、[[ヴァイオリン]]、[[指揮]]、[[作曲]]を学んだ後、故郷の音楽院で[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]に作曲を[[ヘルマン・シェルヘン]]に指揮を師事。指揮は[[1955年]]に[[ルチアーノ・ベリオ]]とともに、[[RAI|イタリア国営放送]]に音響学スタジオを設置したときに、指揮者としても活躍し、オペラや伝統的な管弦楽曲を指揮し、一部は放送録音も残した。当時はまだ[[古楽]]演奏に対する認識も薄く、「モダン楽器のために」[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]以前の作曲家の編作を残していることでも知られる。教育者としては[[ルイジ・ノーノ]]の弟子がいる。[[ダルムシュタット]]にて没。
== 作風 ==
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マデルナは、1920年生まれと前衛世代の中ではやや年長組に属していたものの、[[ベルント・アロイス・ツィンマーマン]]のように前衛イディオムへの懐疑を持つことなく、それを受け入れた。現在でも非常に珍しい「[[トータル・セリエリズム]]作曲コース」の設営、世界初の[[減算合成]]による[[テープ音楽]]の作曲、アナーキズムへの傾斜、そして「多様式主義」をイタリアで初めて採用した(ラジオ・ドラマのための「ドン・ペルリンプリン」)作曲家でもある。
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この時期に知り合ったフルート奏者の[[セヴェリーノ・ガッゼローニ]]とオーボエ奏者の[[ローター・ファーバー]]とは生涯の良き友であると共に、熱心なコラボレーションをすることとなった。そのコラボレーションは、両者が共演する為に書かれる晩年の「グランデ・アウロディア」まで続いた。
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外国での演奏需要が増え、一時期は[[ジュリアード音楽院]]でも教鞭をとった。この時期はヘルダーリンの台本によるオペラ『[[ヒュペーリオン]]』の創作に全精力を費やした形となり、その他の作品はこのオペラの衛星のような役目を果たす格好になる。何でもありの姿勢が退けられ、シリアスな口調を優先させることが多くなった。
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「イタリアの状況は世界の最先端から常に遅れている」ことを証明する為、ついに[[ダルムシュタット]]への移住を決意したのもこの時期である。
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前述のオペラ完成後またしてもオペラの委嘱が舞い込んでおり、これにも「サテュリコン」で答えた彼は多忙が祟って肺がんで急逝してしまう。全楽器を投入したトゥッティが聞き物であった彼も、「クヮドリヴィウム」や「オーボエ協奏曲第三番」ではぽつぽつと響きのない短い音が支配的になるシーンがあり、晩年に入っても更なる作風の展開が予想された矢先の死であった
== 外部リンク ==
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* [http://www5b.biglobe.ne.jp/~coucou/disco2j.html ブルーノ・マデルナ・ディスコグラフィ II. 指揮編]
* [http://www5b.biglobe.ne.jp/~coucou/interview.html ブルーノ・マデルナ インタヴュー抄録]
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[[Category:イタリアの作曲家]]
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[[Category:1920年生]]
[[Category:1973年没]]
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