「ブルーノ・マデルナ」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[ヴェネチア]]に私生児として生まれる。最初[[ローマ]]の音楽院で[[ピアノ]]、[[ヴァイオリン]]、[[指揮]]、[[作曲]]を学んだ後、故郷の音楽院で[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]に作曲を[[ヘルマン・シェルヘン]]に指揮を師事。指揮は[[1955年]]に[[ルチアーノ・ベリオ]]とともに、[[RAI|イタリア国営放送]]に音響学スタジオを設置したときに、指揮者としても活躍し、オペラや伝統的な管弦楽曲を指揮し、一部は放送録音も残した。当時はまだ[[古楽]]演奏に対する認識も薄く、「モダン楽器のために」[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]以前の作曲家の編作を残していることでも知られる。その後、[[イタリア共産党]]に入党。教育者としては、[[ルイジ・ノーノ]]、Alcides Lanza、Richard Maxfield他の弟子がいる。ドイツの[[ダルムシュタット]]にて[[肺癌]]で急逝。
 
1920年生まれと前衛世代の中ではやや年長組に属していたものの、[[ベルント・アロイス・ツィンマーマン]]のように前衛イディオムへの懐疑を持つことなく、それを難なく受け入れた。現在でも非常に珍しい「[[トータル・セリエリズム]]作曲コース」の設営、世界初の[[減算合成]]による[[テープ音楽]]の作曲、アナーキズムへの傾斜、そして「[[多様式主義]]」をイタリアで初めて採用した。「ピアノ協奏曲」で見られる「グランドピアノの蓋を演奏中に乱暴に閉める」指示で有名になったものの、マデルナのスタイルは原則的な伝統的な旋律と和声を尊重したもので、[[セリー]]や[[クラスター]]ほかの要素は副次的である。ヒュペーリオン、サトゥリコンといった舞台作品でも、[[カンティレーナ]]ほかの伝統的要素ははっきりと聞き取れる。「クヮドリヴィウム」や「オーボエ協奏曲第3番」ではぽつぽつと響きのない短い音が支配的になるシーンがあり、晩年に入っても更なる作風の展開が予想された矢先の死であった。
 
== 作曲家としてのディスコグラフィー ==