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[[数学]]における'''ヒルベルト空間'''(ヒルベルトくうかん、{{lang-en-short|''Hilbert space''}})は、[[ダフィット・ヒルベルト]]にその名を因む、[[ユークリッド空間]]の概念を一般化したものである。これにより、二次元の[[平面|ユークリッド平面]]や三次元のユークリッド空間における[[線型代数学]]や[[微分積分学]]の方法論を、任意の有限または無限次元の空間へ拡張して持ち込むことができる。ヒルベルト空間は、[[内積]]の構造を備えた[[ベクトル空間|抽象ベクトル空間]]([[内積空間]])になっており、そこでは角度や長さを測るということが可能である。ヒルベルト空間は、さらに[[完備距離空間]]の構造を備えている([[極限]]が十分に存在することが保証されている)ので、その中で微分積分学がきちんと展開できる。
 
ヒルベルト空間は、典型的には無限次元の[[関数空間]]として、[[数学]]、[[物理学]]、[[工学]]などの各所に自然に現れる。そういった意味でのヒルベルト空間の研究は、20世紀冒頭10年の間に[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]、[[エルハルト・シュミット|シュミット]]、[[リース・フリジェシュ|リース]]らによって始められた。ヒルベルト空間の概念は、[[偏微分方程式]]論、[[量子力学の数学的基礎|量子力学]]、[[フーリエ解析]]([[信号処理]]や熱伝導などへの応用も含む)、[[熱力学]]の研究の数学的基礎を成す[[エルゴード理論]]などの理論において欠くべからざる道具になっている。これら種々の応用の多くの根底にある抽象概念を「ヒルベルト空間」と名付けたのは、[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]である。ヒルベルト空間を用いる方法の成功は、[[関数解析学]]の実りある時代のさきがけとなった。古典的なユークリッド空間はさておき、ヒルベルト空間の例としては、[[自乗可積分関数]]の空間 {{math|''L''{{sup|2}}}}、[[数列空間|自乗総和可能数列の空間]] {{math|ℓ{{sup|2}}}}、[[超函数|超関数]]からなる[[ソボレフ空間]] {{math|''H''{{sup|''s''}}}}、[[正則関数]]の成す[[ハーディ空間]] {{math|''H''{{sup|2}}}} などが挙げられる。
 
ヒルベルト空間論の多くの場面で、幾何学的直観は重要である。例えば、[[ピタゴラスの定理|三平方の定理]]や[[中線定理]](の厳密な類似対応物)は、ヒルベルト空間においても成り立つ。より深いところでは、部分空間への直交射影(例えば、三角形に対してその「高さを潰す」操作の類似対応物)は、ヒルベルト空間論における最適化問題やその周辺で重要である。ヒルベルト空間の各元は、平面上の点がそのデカルト座標(直交座標)によって特定できるのと同様に、[[座標軸]]の集合([[正規直交基底]])に関する座標によって一意的に特定することができる。このことは、座標軸の集合が[[可算無限]]であるときには、ヒルベルト空間を[[ルベーグ空間|自乗総和可能]]な[[列 (数学)|無限列]]の集合と看做すことも有用であることを意味する。ヒルベルト空間上の[[線型作用素]]は、ほぼ具体的な対象として扱うことができる。条件がよければ、空間を互いに直交するいくつかの異なる要素に分解してやると、線型作用素はそれぞれの要素の上では単に拡大縮小するだけの変換になる(これはまさに線型作用素の[[スペクトル論|スペクトル]]を調べるということである)。
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=== 定義 ===
''{{mvar|H''}} が'''ヒルベルト空間'''であるとは、''{{mvar|H''}} は[[実数|実]]または[[複素数|複素]][[内積空間]]であって、さらに内積によって誘導される[[距離関数]]に関して[[完備距離空間]]をなすことを言う<ref name="General">この節における数学的な題材は、{{Harvtxt|Dieudonné|1960}}, {{Harvtxt|Hewitt|Stromberg|1965}}, {{Harvtxt|Reed|Simon|1980}}, {{Harvtxt|Rudin|1980}} など、標準的な関数解析学の教科書を見れば載っている。</ref>。ここで、''{{mvar|H''}} が複素内積空間であるというのは、''{{mvar|H''}} は複素線型空間であって、その上に内積、即ち ''{{mvar|H''}} の元の対 {{math|''x'', ''y''}} に複素数 &lang;{{math|{{angbr|''x'',''y''&rang;}}}} を対応させる写像であって、条件
# &lang;{{math|{{angbr|''y'',''x''&rang;}}}}&lang;{{math|{{angbr|''x'',''y''&rang;}}}} の[[複素共役]]である:<div style="margin: 1ex 2em;"><math>\langle y,x\rangle = \overline{\langle x, y\rangle}.</math></div>
# &lang;{{math|{{angbr|''x'',''y''&rang;}}}} は第一引数に関して[[線型写像|線型]]である<ref>第二引数に関して線型であると約束する場合もある。</ref>: 任意の複素数 {{math|''a'', ''b''}} に対して<div style="margin: 1ex 2em;"><math>\langle ax_1+bx_2, y\rangle = a\langle x_1, y\rangle + b\langle x_2, y\rangle.</math>
# 内積 &lang;{{math|{{angbr|•, &rang;}}}} は[[定符号二次形式|正定値]]である:<div style="margin: 1ex 2em;"><math>\langle x,x\rangle \ge 0</math></div>かつ等号成立は {{math|1=''x''&nbsp; =&nbsp; 0}} と同値。
を満たすものが存在することをいう。条件の 1 と 2 を併せると、複素内積は第二引数に関して反線型 {{lang|en|(antilinear)}} となることが従う。即ち、
:<math>\langle x, ay_1+by_2\rangle = \bar{a}\langle x, y_1\rangle + \bar{b}\langle x, y_2\rangle</math>
が成り立つ。実内積空間も同様に定められ(''{{mvar|H''}} が実線型空間であることと、内積が実数値であることとが違うだけである)、この場合の内積は双線型(各引数について線型)になる。
 
内積 &lang;{{math|{{angbr|•, &rang;}}}} によって定義される[[ノルム]]
:<math>\|x\| := \sqrt{\langle x,x \rangle}</math>
は実数値関数であり、このノルムを用いて ''{{mvar|H''}}2{{math|''x'', ''y''}} 間の距離が
:<math>d(x,y):=\|x-y\| = \sqrt{\langle x-y,x-y \rangle}</math>
と定められる。これが距離であるというのは、(1)「''{{mvar|x''}}''{{mvar|y''}} に関して対称」で、(2)「''{{mvar|x''}}''{{mvar|x''}} 自身との距離は 0 に等しく、かつそれ以外のときは ''{{mvar|x''}}''{{mvar|y''}} との距離は必ず正」で、(3)「[[三角不等式]]
:<math>d(x,z) \le d(x,y) + d(y,z)</math>
を満たす、即ち三角形 ''{{mvar|xyz''}} の一辺の長さは他の二辺の長さの和を超えない」という三性質を満たすことを意味する。
<!--[[File:Triangle inequality in a metric space.svg|300px|center]]-->
三つ目の性質は、突き詰めればより基本的な[[コーシー・シュヴァルツの不等式]]
:<math>|\langle x, y\rangle| \le \|x\|\,\|y\|</math>
(ただし等号成立は {{math|''x'', ''y''}} の[[線型独立性]]と同値)からの帰結である。
 
このようにして定義される距離関数に関して、任意の内積空間は[[距離空間]]となる。内積空間のことを'''前ヒルベルト空間''' {{en|(pre-Hilbert space)}} と呼ぶこともある<ref>{{harvnb|Dieudonné|1960|loc=§6.2}}</ref>。距離空間として[[完備距離空間|完備]]であるような任意の前ヒルベルト空間は、ヒルベルト空間になる。完備性は、''{{mvar|H''}} 内の列に対する{{仮リンク|コーシーの判定法|en|Cauchy's convergence test}}の形で表すことができる。即ち、前ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} が完備となるのは、任意の[[コーシー列]]がノルムに関する意味で ''{{mvar|H''}} 内の元に収束することである。完備性は、次のような条件
: ベクトル項級数 {{math|1=&sum;{{su|b=''k''{{=}}0|p=&infin;}}&thinsp; ''u''<sub>''k''</sub>}} が<div style="margin: 1ex 2em;"><math>\sum_{k=0}^\infty\|u_k\| < \infty</math></div>なる意味で絶対収束するならば、もとの級数は(部分和が ''{{mvar|H''}} の元に収束するという意味で) ''{{mvar|H''}} において収束する。
によっても特徴付けることができる。
 
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=== もう少し自明でない例 ===
複素数を項とする[[数列|無限数列]] {{math|1='''z'''&nbsp; =&nbsp; (''z''<sub>''1''</sub>, ''z''<sub>2</sub>, …)}} で[[級数]]
:<math>\sum_{n=1}^\infty |z_n|^2</math>
が[[収束級数|収束]]するようなもの(自乗総和可能な無限複素数列)全体の成す[[数列空間]]を {{math|ℓ<sup>2</sup>}} で表す。ℓ<sup>2</sup> 上の内積は[[エルミート積]]として
:<math>\langle \mathbf{z},\mathbf{w}\rangle = \sum_{n=1}^\infty z_n\bar{w}_n</math>
で定義される。この右辺の級数が収束することはコーシー・シュヴァルツの不等式からの帰結である。
 
空間 {{math|ℓ<sup>2</sup>}} の完備性は「{{math|ℓ<sup>2</sup>}} の元からなる級数が(ノルムの意味で)絶対収束するならば必ず、その級数が {{math|ℓ<sup>2</sup>}} の何らかの元に収束する」ことを示せば言える。このことの証明は[[解析学]]の初歩であり、この空間の元からなる級数は複素数(あるいは有限次元ベクトル空間のベクトル)からなる級数と同程度容易に扱うことができる<ref>{{harvnb|Dieudonné|1960}}</ref>。
 
== 歴史 ==
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ヒルベルト空間が開発される以前にも、数学や物理学においてユークリッド空間を一般化する別な概念が知られていた。特に、19世紀の終わりに掛けていくつかの流れの中から[[ベクトル空間|抽象線型空間]]の概念が獲得される<ref>[[アウグスト・フェルディナント・メビウス|メビウス]]の後押しを受けた[[ヘルマン・グラスマン|グラスマン]]の手によるところが大きい {{harv|Boyer|Merzbach|1991|pp=584–586}}。抽象線型空間の現代的にきちんとした公理的取り扱いは、1888年の[[ジュゼッペ・ペアノ|ペアノ]]が最初である ({{harvnb|Grattan-Guinness|2000|loc=§5.2.2}}; {{harvnb|O'Connor|Robertson|1996}})。</ref>。これは、その元同士の加法と([[実数]]や[[複素数]]のような)スカラーによる乗法とを備えた空間のことを指すのであって、必ずしも物理的な系における運動量や位置といった[[幾何ベクトル|「幾何学的な」ベクトル]]をその元が同一視される必要はないという性質のものである。20世紀に入ると、数学者たちは新たな対象を扱うようになり、特に[[数列]]の空間([[級数]]論も含む)や関数の空間<ref>ヒルベルト空間の詳しい歴史は {{harvnb|Bourbaki|1987}} に扱われている。</ref> は自然に線型空間と看做すことができる。実際に、関数の場合なら、関数同士の和や定数をスカラーとする乗法が定義できて、それらの演算は空間ベクトルの加法とスカラー倍が従うのと同じ代数法則に従う。
 
20世紀の最初の10年間で、ヒルベルト空間の導入に繋がる展開が同時並行的に現れた。その一つは、[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]と[[エルハルト・シュミット|シュミット]]の[[積分方程式]]論の研究過程で見出された<ref>{{harvnb|Schmidt|1908}}</ref>。区間 &#x5b;{{math|[''a'', ''b''&#x5d;]}} 上の2つの[[自乗可積分]]な実数値関数 {{math|''f'', ''g''}} は「内積」
:<math>\langle f,g \rangle = \int_a^b f(x)g(x)\,dx</math>
を持ち、これがよく知られたユークリッド空間のドット積の性質の多くを有していた。これにより特に、関数からなる[[正規直交系]]の概念が意味を持つようになる。シュミットは、この内積と通常のドット積との類似性として、
:<math>f(x) \mapsto \int_a^b K(x,y) f(y)\, dy</math>
(ただし、''{{mvar|K''}}{{math|''x'', ''y''}} に関して対称)なる形の作用素に対して[[スペクトル分解]]の類似物を示した。得られる[[固有関数]]展開は関数 ''{{mvar|K''}}
:<math>K(x,y) = \sum_n \lambda_n\varphi_n(x)\varphi_n(y)\,</math>
なる形の級数として表す。ただし、関数系 {{mvar|φ<sub>''n''</sub>}} は、{{math|''n'' &ne; ''m''}} なるとき常に &lang;{{math|1={{angbr|''φ<sub>''n''</sub>'', ''φ<sub>''m''</sub>&rang;''}} = 0}} を満たすという意味で、直交系を成す。この級数の個々の項は、'''基本積解''' {{en|(elementary product solution)}} と呼ばれることもある。しかし、この固有関数展開には、適当な意味で自乗可積分関数に収束するものとそうでないものがある。収束を保証するには完備性(系の完全性)が不可欠なのである<ref>{{harvnb|Titchmarsh|1946|loc=§IX.1}}</ref>。
 
いま一つは、[[アンリ・ルベーグ|ルベーグ]]が[[リーマン積分]]に替わるものとして1904年に導入した[[ルベーグ積分]]である<ref>{{harvnb|Lebesgue|1904}}。積分論の歴史の詳細は {{harvtxt|Bourbaki|1987}} と {{harvtxt|Saks|2005}} にある。</ref>。ルベーグ積分は、より広範なクラスの関数で積分を定義することを可能にした。1907年に、[[リース・フリジェシュ|リース]]と{{仮リンク|エルンスト・シギスムント・フィッシャー|label=フィッシャー|en|Ernst Sigismund Fischer}}はそれぞれ独立にルベーグ自乗可積分関数全体の成す空間 {{math|''L''<sup>2</sup>}} が[[完備距離空間]]であることを示した<ref>{{harvnb|Bourbaki|1987}}.</ref>。このような幾何学的議論と系の完全性の議論が合わさった帰結として、19世紀に得られた[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル|ベッセル]]、{{仮リンク|マルク=アントワーヌ・パーシヴァル|label=パーシヴァル|en|Marc-Antoine Parseval}}らの[[三角級数]]についての成果を、これらのより一般の空間へ容易に持ち込むことができた。そうして得られた幾何学的かつ解析学的な仕組みは今日ではふつう{{仮リンク|リース・フィッシャーの定理|en|Riesz–Fischer theorem}}として知られる<ref>{{harvnb|Dunford|Schwartz|1958|loc=§IV.16}}</ref>。
 
更なる基本的結果が20世紀の初め頃に証明されていく。例えば、[[リースの表現定理]]は1907年に[[モーリス・フレシェ|フレシェ]]と[[リース・フリジェシュ|リース]]がそれぞれ独立に示した<ref>{{harvtxt|Fréchet|1907}} と {{harvtxt|Riesz|1907}} の結果を併せて {{harvtxt|Dunford|Schwartz|1958|loc=§IV.16}} は「L<sup>2</sup>[0,1] 上の任意の線型汎関数は積分で表される」と書いている。「ヒルベルト空間の双対がもとの空間と同一視される」という一般な形の主張は {{harvtxt|Riesz|1934}} で述べられている。</ref> [[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]は自身の非有界[[エルミート作用素]]の研究において「'''抽象ヒルベルト空間'''」という用語を創出した<ref>{{Harvnb|von Neumann|1929}}.</ref>。他の[[ヘルマン・ワイル|ワイル]]や[[ノーバート・ウィーナー|ウィーナー]]のような数学者は(しばしば物理学的な興味を動機として)既に特定のヒルベルト空間については極めて詳細な研究を行っていたのだけれども、一般のヒルベルト空間をきちんと、しかも公理的に取り扱ったのはフォン・ノイマンが最初である<ref>{{harvnb|Kline|1972|p=1092}}</ref>。後にフォン・ノイマンは、量子力学の基礎付けに関する金字塔的研究<ref>{{Harvnb|Hilbert|Nordheim|von Neumann|1927}}.</ref>においてこのヒルベルト空間の概念を用いており、[[ユージン・ウィグナー|ウィグナー]]へと続いていく。「ヒルベルト空間」という呼称は瞬く間に他へ広まり、例えばワイルは自身の量子力学と群論の教科書<ref name="Weyl31">{{Harvnb|Weyl|1931}}.</ref>で用いている。
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ヒルベルト空間の概念の重要性は、それが最も適切な[[量子力学の数学的基礎]]の提供を実現したことで強く認識されるようになった<ref>{{harvnb|Prugovečki|1981|pp=1–10}}.</ref>。簡単に言えば、量子力学系の状態はある種のヒルベルト空間におけるベクトルであり、可観測量はその空間上の[[エルミート作用素]]であり、系の[[対称性 (物理学)|対称性]]は[[ユニタリ作用素]]であり、[[観測問題|観測]]は[[直交射影]]である。量子力学的対称性とユニタリ作用素との間の関係は、1928年のワイル<ref name="Weyl31" />に始まる[[群 (数学)|群]]の[[ユニタリ表現|ユニタリ]][[群の表現論|表現論]]の発展の原動力となった。他方、1930年代の初め頃には、古典的な[[力学系]]のある種の性質が、[[エルゴード理論]]の枠組みのもとでヒルベルト空間を用いた方法で調べられるようになり、明らかにされた<ref name="von Neumann 1932">{{harvnb|von Neumann|1932}}</ref>。
 
量子力学における[[可観測量]]の代数は、[[ヴェルナー・ハイゼンベルク|ハイゼンベルク]]の[[行列力学]]による量子論の定式化に従って、自然に或るヒルベルト空間上で定義される作用素環となる。1930年代のうちにフォン・ノイマンがヒルベルト空間上の作用素の成す[[環 (数学)|環]]としての[[作用素代数|作用素環]]を調べ始め、フォン・ノイマンやその時代の人々が研究した種類の作用素環は、今日では[[フォン・ノイマン環]]と呼ばれている。1940年代には、[[イズライル・ゲルファント|ゲルファント]]、{{仮リンク|マーク・ナイマーク|en|Mark Naimark|label=ナイマーク}}、{{仮リンク|アーヴィング・シーガル|en|Irving Segal|label=シーガル}}らが [[C*代数| {{math|''C''<sup>&lowast;</sup>}}-環]]と呼ばれる種類の作用素環の定義を与えた。これはヒルベルト空間の基盤となることはない一方で、それまで知られていた作用素環のもつ有用な特徴が当てはまる。特に、存在する殆どのヒルベルト空間論の根底にある、自己随伴作用素のスペクトル定理が {{math|''C''<sup>&lowast;</sup>}}-環に対して一般化された。これらの手法は今や抽象調和解析や表現論において基本となっている。
 
== 例 ==
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{{Main|ルベーグ空間}}
 
ルベーグ空間は[[測度空間]] {{math|(''X'', ''M'', ''μ'')}}''{{mvar|X''}}[[集合]]で、''{{mvar|M''}}''{{mvar|X''}} の部分集合からなる[[完全加法族]]、{{mvar|μ}}''{{mvar|M''}} 上の[[測度|完全加法的測度]])に付随する[[関数空間]]である。{{math|''L''<sup>2</sup>(''X'', ''μ'')}} を、''{{mvar|X''}} 上の複素数値可測関数で、その[[絶対値]]の平方の[[ルベーグ積分]]が有限となるようなもの全体の成す空間とする。即ち、{{math|''L''<sup>2</sup>(''X'', ''μ'')}} に属する関数 ''{{mvar|f''}} は必ず
:<math> \int_X |f|^2 d \mu < \infty</math>
を満たす。ただし、[[零集合|測度零の集合]]の上でだけ異なる([[ほとんど (数学)|殆ど至る所一致する]])ような関数は全て同一視するものとする。
 
{{math|''L''<sup>2</sup>(''X'', ''μ'')}} に属する関数 {{math|''f'', ''g''}} の内積は
:<math>\langle f,g\rangle=\int_X f(t) \overline{g(t)} \ d \mu(t)</math>
で与えられる。{{math|''L''<sup>2</sup>}} の元 {{math|''f'', ''g''}} に対して、右辺の積分が存在することはコーシー・シュヴァルツの不等式から示されるから、これは確かに内積を定義している。このように定義された内積に関して {{math|''L''<sup>2</sup>}} は実は完備になる<ref>{{Harvnb|Halmos|1957|loc=Section 42}}.</ref>。積分がルベーグ積分であることは完備性を保証するために本質的である。例えば、実数からなる領域上で[[リーマン積分#可積分性|リーマン可積分関数]]を考えるのでは十分でない<ref>{{Harvnb|Hewitt|Stromberg|1965}}.</ref>。
 
多くの自然な設定の下でルベーグ空間を考えることができる。{{math|''L''<sup>2</sup>('''R''')}} および {{math|''L''<sup>2</sup>([0, 1])}} をそれぞれ実数直線および単位閉区間上で定義される([[ルベーグ測度]]に関する)自乗可積分関数全体の成す空間とすると、それぞれの自然な定義域上でフーリエ変換とフーリエ級数が定義できる。別な状況では、実数直線上の通常のルベーグ測度ではない何か別の測度を用いることもある。例えば、任意の正値可測関数 ''{{mvar|w''}} をとり、区間 &#x5b;{{math|[0, 1&#x5d;]}} 上の可測関数 ''{{mvar|f''}}
:<math>\int_0^1 |f(t)|^2w(t)\,dt < \infty</math>
を満たすもの全体の成す空間は[[ルベーグ空間|重み付き {{math|''L''<sup>2</sup>}}-空間]]と呼ばれ、''{{mvar|w''}} を重み関数と呼ぶ。内積は
:<math>\langle f,g\rangle=\int_0^1 f(t) \overline{g(t)} w(t) \, dt</math>
で与えられる。重み付き空間 {{math|1=''L''{{su|p=2|b=''w''}}([0, 1])}} はヒルベルト空間 {{math|''L''<sup>2</sup>([0, 1], ''μ'')}} に等しい。ただし測度 {{mvar|μ}} は可測集合 ''{{mvar|A''}} に対して
:<math>\mu(A) = \int_A w(t)\,dt</math>
を満たすものと定める。このような重み付き {{math|''L''<sup>2</sup>}} 空間は[[直交多項式]]を調べるのによく用いられる(これは種々の直交多項式系は、それぞれ別な重み関数に関する意味で直交することによる)。
 
=== ソボレフ空間 ===
[[ソボレフ空間]] {{math|''H''<sup>''s''</sup>}} あるいは {{math|''W''<sup>''s'',2</sup>}} はヒルベルト空間になる。これらの空間は[[微分]]が行えるような[[関数空間]]の一種で、([[ヘルダー空間]]のようなほかのバナッハ空間とは異なり)内積の構造も持つ特別な場合になっている。微分が使えることで、ソボレフ空間は[[偏微分方程式]]論に対して都合がよい<ref name="BeJoSc81" />。また[[変分法における直接法]]の基礎も与えている。<ref>{{Harvnb|Giusti|2003}}.<!--Find a reference more specific to the case p=2--></ref>
 
非負整数 ''{{mvar|s''}} と領域 {{math|Ω ⊂ '''R'''<sup>''n''</sup>}} に対し、ソボレフ空間 {{math|''H''<sup>''s''</sup>(Ω)}}''{{mvar|s''}} 階までの[[弱微分]]が全て {{math|''L''<sup>2</sup>}} に属するような {{math|''L''<sup>2</sup>}}-関数を全て含む。{{math|''H''<sup>''s''</sup>(Ω)}} における内積は
:<math>\langle f,g\rangle = \int_\Omega f(x)\bar{g}(x)\,dx + \int_\Omega D f\cdot D\bar{g}(x)\,dx + \cdots + \int_\Omega D^s f(x)\cdot D^s \bar{g}(x)\, dx</math>
で与えられる。ただし、右辺のドット積は各階の偏導関数全体の成すユークリッド空間におけるドット積である。''{{mvar|s''}} が整数でない場合にもソボレフ空間は定義できる。
 
ソボレフ空間は、(ヒルベルト空間のより具体的な構造に依拠する)スペクトル論の観点からも研究される。適当な領域 {{math|Ω}} に対してソボレフ空間 {{math|''H''<sup>''s''</sup>(Ω)}} を{{仮リンク|ベッセルポテンシャル|en|Bessel potential}}全体の成す空間として定義することができる<ref>{{harvnb|Stein|1970}}</ref>。これはだいたい
:<math>H^s(\Omega) = \{ (1-\Delta)^{-s/2}f | f\in L^2(\Omega)\}</math>
のようなものである。ここで {{math|Δ}} は[[ラプラス作用素]]、{{math|(1&nbsp; &minus;&nbsp; Δ)<sup>&minus;''s''/2</sup>}} は{{仮リンク|スペクトル写像定理|en|spectral mapping theorem<!-- リダイレクト先の「[[:en:Banach algebra]]」は、[[:ja:バナッハ環]] とリンク -->}}によって捉えることができる。非負整数 ''{{mvar|s''}} に対するソボレフ空間の意味のある定義を与える必要があることをひとまず置いておけば、ソボレフ空間の定義は[[フーリエ変換]]のもとで特に望ましい性質を持ち、[[擬微分作用素]]の研究に対して理想的である。これらの方法を[[コンパクト空間|コンパクト]][[リーマン多様体]]上で用いれば、例えば[[ホッジ理論]]の基礎を成す[[ド・ラームコホモロジー#ホッジ分解|ホッジ分解]]が得られる<ref>詳細は {{harvtxt|Warner|1983}} に見つかる。</ref>。
 
=== {{anchors|正則函数の空間}}正則関数の空間 ===
; ハーディ空間
:[[複素解析]]や[[調和解析]]で用いられる[[ハーディ空間]]は、その元が複素領域上の[[正則関数]]となっているような関数空間の一種である<ref>ハーディ空間の一般論は {{harvtxt|Duren|1970}} を見よ。</ref>。''{{mvar|U''}} をガウス平面上の[[単位円板]]とすると、ハーディ空間 {{math|''H''<sup>2</sup>(''U'')}}''{{mvar|U''}} 上の正則関数 ''{{mvar|f''}} で、その平均<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
M_r(f) = \frac{1}{2\pi}\int_0^{2\pi}|f(re^{i\theta})|^2\,d\theta
</math></div>がまた {{math|''r'' &lt; 1}} で抑えられるようなもの全体の成す空間として定義される。このハーディ空間上のノルムは<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
\|f\|_2 = \lim_{r\to 1} \sqrt{M_r(f)}
</math></div>で与えられる。この円板上のハーディ空間はフーリエ級数と関係があり、正則関数 ''{{mvar|f''}}{{math|''H''<sup>2</sup>(''U'')}} に属するための必要十分条件は、<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
f(z) =\sum_{n=0}^\infty a_n z^n,\qquad\left(\sum_{n=0}^\infty|a_n|^2 <\infty\right)
</math></div>なる形に書けることである。従って、空間 {{math|''H''<sup>2</sup>(''U'')}} は、単位円板上の {{math|''L''<sup>2</sup>}}-関数で、負の周波数に対するフーリエ係数が消えているようなもの全体からなる。
 
; ベルグマン空間
: 正則関数の成すヒルベルト空間の別なクラスに[[ベルグマン空間]]がある<ref>{{harvnb|Krantz|2002|loc=§1.4}}</ref>。''{{mvar|D''}} を[[ガウス平面]](または高次元の複素空間)の有界開集合とし、{{math|''L''<sup>2,''h''</sup>(''D'')}}''{{mvar|D''}} 上の正則関数 ''{{mvar|f''}} で<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
\|f\|^2 = \int_D |f(z)|^2\,d\mu(z) < \infty
</math></div>なる意味で {{math|''L''<sup>2</sup>(''D'')}} にも属するようなもの全体の成す集合とする。ただし積分は ''{{mvar|D''}} におけるルベーグ測度に関してとる。明らかに {{math|''L''<sup>2,''h''</sup>(''D'')}}{{math|''L''<sup>2</sup>(''D'')}} の部分空間であり、実は閉部分空間になっているので、それ自身ヒルベルト空間を成す。このことは、''{{mvar|D''}} の[[コンパクト空間|コンパクト部分集合]] ''{{mvar|K''}} の上で有効な評価<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
\sup_{z\in K} |f(z)| \le C_K \|f\|_2
</math></div>からの帰結である。この評価自体は[[コーシーの積分公式]]から出る。従って、{{math|''L''<sup>2</sup>(''D'')}} に属する正則関数列の収束は[[コンパクト収束]]でもあるから、極限関数もまた正則になる。先の評価不等式の別な帰結として、''{{mvar|D''}} の一点において関数 ''{{mvar|f''}} を評価する線型汎関数は、実際には {{math|''L''<sup>2,''h''</sup>(''D'')}} 上で連続であることがわかる。リースの表現定理によれば、この評価関数を表現する ''L''<sup>2,''h''</sup>(''D'') の元が存在するから、各 {{math|''z''&nbsp; &nbsp; ''D''}} に対して関数 {{math|''η''<sub>''z''</sub>&nbsp; &nbsp; ''L''<sup>2,''h''</sup>(''D'')}} で<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
f(z) = \int_D f(\zeta)\overline{\eta_z(\zeta)}\,d\mu(\zeta)
</math></div>をすべての {{math|''ƒ''&nbsp; &nbsp; ''L''<sup>2,''h''</sup>(''D'')}} に対して満たすようなものが取れる。被積分関数の因子<div style="margin: 1ex 2em;"><math>K(\zeta,z) = \overline{\eta_z(\zeta)}</math></div>は ''{{mvar|D''}} の[[ベルグマン核]]と呼ばれる[[積分核]]で、再生性<div style="margin: 1ex 2em;"><math>f(z) = \int_D f(\zeta)K(\zeta,z)\,d\mu(\zeta)</math></div>を満足する。
 
ベルグマン空間は{{仮リンク|再生核ヒルベルト空間|en|reproducing kernel Hilbert space}}(関数からなるヒルベルト空間で、先と同様の再生性を持つ積分核 {{math|''K''(''ζ'',''z'')}} を備えたもの)の例になっている。ハーディ空間 {{math|''H''<sup>2</sup>(''D'')}} にも{{仮リンク|セゲー核|en| Szegő kernel}}と呼ばれる再生核を持つ<ref>{{harvnb|Krantz|2002|loc=§1.5}}</ref>。再生核は数学のほかの分野でもよく用いられる。たとえば、[[調和解析]]における[[ポアソン核]]は[[単位球体]]上の自乗可積分[[調和関数]]全体の成すヒルベルト空間(これがヒルベルト空間を成すことは調和関数に対する中間値の定理からわかる)に対する再生核である。
 
== 応用 ==
141行目:
{{Main|スツルム・リウヴィル理論|{{仮リンク|常微分方程式のスペクトル論|en|Spectral theory of ordinary differential equations}}}}
[[Image:Harmonic partials on strings.svg|right|thumb|振動元の[[倍音]]。これらはスツルム・リウヴィル問題の[[固有関数]]で、固有値 {{math|1,1/2,1/3,…}} は[[倍音列]]を成す。]]
[[常微分方程式]]論において、微分方程式の固有関数および固有値の振る舞いを調べるのに適当なヒルベルト空間上のスペクトル法が利用できる。例えば、ヴァイオリンの弦やドラムの調波の研究から生じた[[スツルム=リウヴィル型微分方程式|スツルム・リウヴィル問題]]は、常微分方程式論の中心的な問題である<ref>{{harvnb|Young|1988|loc=Chapter 9}}.</ref>。スツルム・リウヴィル問題は区間 &#x5b;{{math|[''a'', ''b''&#x5d;]}} 上の未知関数 ''{{mvar|y''}} に対する常微分方程式
:<math> -\frac{d}{dx}\left[p(x)\frac{dy}{ dx}\right]+q(x)y=\lambda w(x)y</math>
で、一般斉次[[ロビン境界条件]]
174行目:
 
フォンノイマンの平均エルゴード定理<ref name="von Neumann 1932"></ref>の主張は次のようなものである。
* ''U''<sub>''t''</sub> がヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} 上のユニタリ作用素からなる(強連続)一径数半群で、''P'' を ''U''<sub>''t''</sub> の同時不動点全体の成す集合{''x''∈''H''&nbsp;|&nbsp;''U''<sub>''t''</sub>''x''&nbsp;=&nbsp;''x'' for all ''t''&nbsp;&gt;&nbsp;0} の上への直交射影とすると<div style="margin: 1ex 2em;"><math>
Px = \lim_{T\to\infty}\frac{1}{T}\int_0^TU_tx\,dt
</math></div>が成り立つ。
185行目:
[[File:Sawtooth Fourier Analysys.svg|thumb|right|正弦波基底関数(下)の重ね合わせが鋸歯状波(上)になる。]]
[[File:Harmoniki.png|thumb|right|球面上の自乗可積分関数全体の成すヒルベルト空間の正規直交基底を成す[[球面調和関数]]を、半径方向に沿ってグラフ化したもの]]
[[フーリエ解析]]の基本目的の一つは、関数を付随する[[フーリエ級数]]、即ち与えられた基底関数族の(必ずしも有限とは限らない)[[線型結合]]に分解することである。区間 &#x5b;{{math|[0, 1&#x5d;]}} 上の関数 ''{{mvar|f''}} に付随する古典フーリエ級数とは
:<math>\sum_{n=-\infty}^\infty a_n e^{2\pi in\theta}\quad (a_n := \int_0^1f(\theta)e^{-2\pi in\theta}\,d\theta)</math>
なる形の級数である。
191行目:
鋸歯状波関数に対するフーリエ級数の最初の数項を足し上げた例を図に示す。鋸歯状波関数の波長を λ とすると、(基本波、つまり ''n'' = 1 を除いて)それよりも短い波長 λ/''n''(''n'' は整数)をもつ正弦波が基底関数である。全ての基底関数が鋸歯状波の折れるところで交わり(結点)を持つが、基本波を除く全ての基底関数はそれ以外にも結点を持つ。鋸歯の周りでの基底関数の部分和の振動は[[ギブズ現象]]と呼ばれるものである。
 
古典フーリエ級数論の特徴的な問題の一つに「関数 ''f'' のフーリエ級数がもとの関数に収束する(ことが仮にあったとする)ならば、それはどのような意味においての収束であるか」を問う問題がある。これに対して、ヒルベルト空間を用いた方法で答えを与えることができる<ref>この観点からのフーリエ級数の扱いは、例えば {{harvtxt|Rudin|1987}} や {{harvtxt|Folland|2009}} を参照。</ref>。関数族 ''e''<sub>''n''</sub>(θ)&nbsp;:= e<sup>''2πinθ''</sup> はヒルベルト空間 {{math|''L''<sup>2</sup>([0, 1])}} の正規直交基底を成すから、それ故に任意の自乗可積分関数 ''f'' が
:<math>f(\theta) = \sum_n a_n e_n(\theta),\quad (a_n := \langle f,e_n\rangle)</math>
なる級数の形で表せて、さらにこの級数は {{math|''L''<sup>2</sup>([0, 1])}} の元として収束する(即ち、{{math|''L''<sup>2</sup>}}-収束、[[平均収束|自乗平均収束]])。
 
この問題を抽象的な観点からも見ることができる。任意のヒルベルト空間は[[正規直交基底]]を持ち、ヒルベルト空間の各元はそれら基底に属する元の定数倍の和として一意的に表すことができるが、この展開に現れる各基底元の係数のことをその元の抽象フーリエ係数と呼ぶことがある<ref>{{harvnb|Halmos|1957|loc=§5}}</ref>。このような抽象化は、''L''<sup>2</sup>([0,1]) などの空間で別の基底関数系を用いることがより自然であるようなときに、特に有用である。関数を三角関数系に分解することは不適当だが、例えば[[直交多項式系]]や[[ウェーブレット]]<ref>{{harvnb|Bachman|Narici|Beckenstein|2000}}</ref>および高次元において[[球面調和関数]]<ref>{{harvnb|Stein|Weiss|1971|loc=§IV.2}}.</ref>へ展開することが適当であるような状況はたくさんある。
221行目:
== 性質 ==
=== 三平方の定理 ===
ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} の二つのベクトル ''u'', ''v'' が直交するのは、&lang;''u'', ''v''&rang; = 0 のときである。このとき ''u'' ⊥ ''v'' と書く。更に一般に、''H'' の部分集合 ''S'' に対して ''u'' ⊥ ''S'' と書けば、これは ''u'' が ''S'' の各元と直交することを意味する。
 
''u'' と ''v'' とが直交するとき、等式
228行目:
''u''<sub>1</sub>, …, ''u<sub>n</sub>'' に対して
:<math>\|u_1 + \cdots + u_n\|^2 = \|u_1\|^2 + \cdots + \|u_n\|^2</math>
が成り立つ。三平方の定理の主張は任意の内積空間で有効であるにも拘らず、この等式を級数(無限和)に対して拡張するには完備性を課さねばならない。互いに直交するベクトルからなる級数 &sum;&thinsp;''u<sub>k</sub>'' が ''{{mvar|H''}} において収束するための必要十分条件は、各項のノルムの平方からなる級数が収束し、かつ
:<math>\left\|\sum_{k=0}^\infty u_k \right\|^2 = \sum_{k=0}^\infty \|u_k\|^2</math>
が満たされることである。更に言えば、互いに直交するベクトルからなる級数の和は、それらのベクトルの和をとる順番に依らずに定まる。
243行目:
 
=== 最適近似 ===
ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} の空でない閉凸部分集合を ''C'' とし、''H'' の点 ''x'' をとると、''x'' との距離を最小化する ''C'' の元 ''y'' がただ一つ存在する<ref>{{harvnb|Rudin|1987|loc=Theorem 4.10}}</ref>。
 
:<math> {}^{\exists!}y \in C,\quad \|x - y\| = \mathrm{dist}(x, C) = \min \{ \|x - z\| : z \in C \}.</math>
249行目:
これは、''C'' を平行移動した凸集合 ''D'' := ''C'' &minus; ''x'' にノルムが最小となる点が存在するとも言い換えられる。このことは、任意の最小化列 (''d<sub>n</sub>'')&nbsp;⊂ ''D'' が(中線定理により)コーシー列となること、従って(完備性により)''D'' 内の点に収束するが、それがノルム最小であることを示すことで証明できる。もっと一般に、一様凸バナッハ空間でこのことは成り立つ<ref>{{harvnb|Dunford|Schwartz|1958|loc=II.4.29}}</ref>。
 
この結果を ''{{mvar|H''}} の閉部分空間 ''F'' に適用するとき、''y''&nbsp;∈ ''F'' が ''x'' に最近接することは
:<math> y \in F, \quad x - y \perp F</math>
によって特徴付けることができる<ref>{{harvnb|Rudin|1987|loc=Theorem 4.11}}</ref>。この点 ''y'' というのは ''x'' の ''F'' の上への'''直交射影'''に他ならない。このとき、写像 ''P<sub>F</sub>'': ''x'' &#x21a6; ''y'' は線型である([[#直交補空間と射影|後述]])。この結果は、[[最小自乗法]]の基礎を成すもので、[[応用数学]]、特に[[数値解析]]において有意である。
 
特に ''F'' が全体空間 ''{{mvar|H''}} 自身とは一致しないとき、''F'' に直交する非零ベクトル ''v'' が取れる(''F'' に属さない ''x'' をとって、''v'' := ''x'' &minus; ''y'' と置けばよい)。これを応用して、閉部分集合 ''F'' が ''{{mvar|H''}} の部分集合 ''S'' によって生成されるかを見るのに有効な判定法が得られる。即ち、
: ''{{mvar|H''}} の部分集合 ''S'' が生成する部分空間が ''{{mvar|H''}} で稠密となるのは、''S'' に直交するベクトル {{math|''v'' &isin; ''H''}} が零ベクトル 0 のみであるとき(かつそのときに限る)である。
 
=== 双対性 ===
ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} の[[連続的双対空間]] ''H''<sup>∗</sup> とは、''H'' からその係数体への[[連続写像|連続]]な線型写像全体の成す空間のことをいう。この空間には
:<math>\|\varphi\| = \sup_{\|x\|=1,\atop x\in H} |\varphi(x)|</math>
で定義される自然なノルムが入る。このノルムは中線定理を満足するので、この双対空間もまた内積空間になる。またこれは完備であり、従ってそれ自身ヒルベルト空間を定める。
263行目:
[[リースの表現定理]]は、この双対空間の簡便な記述を与えてくれる。即ち、''H'' の各元 ''u'' に対して、
:<math>\varphi_u(x) = \langle x,u\rangle</math>
で定まる ''H''<sup>∗</sup> の元 φ<sub>''u''</sub> がただ一つ存在し、写像 ''u'' &#x21a6; φ<sub>''u''</sub> は ''{{mvar|H''}} から ''H''<sup>∗</sup> への{{仮リンク|反線型写像|en|antilinear map}}になる。リースの表現定理はこの写像が反線型同型であるというのである<ref>{{harvnb|Weidmann|1980|loc=Theorem 4.8}}</ref>。故に、双対空間 ''H''<sup>∗</sup> の各元 &phi; に対し ''{{mvar|H''}} の元 ''u''<sub>φ</sub> がただ一つ存在して、''H'' の任意の元 ''x'' について
:<math>\langle x, u_\varphi\rangle = \varphi(x)</math>
を満たす。双対空間 ''H''<sup>∗</sup> 上に定まるこの内積は
269行目:
を満たす。右辺で順番が逆になっているのは ''u''<sub>φ</sub> の反線型性から φ の線型性を回復するためである。実係数の場合は、''H'' からその双対空間への反線型同型は実際には線型同型になるから、実ヒルベルト空間はその双対空間と自然に同型になる。
 
表現ベクトル ''u''<sub>φ</sub> を得るには以下のようにする。φ&nbsp;≠ 0 のとき、[[核 (数学)|核]] ''F''&nbsp;= ker&thinsp;φ は ''{{mvar|H''}} の閉部分空間であって、''H'' には一致しないから、''F'' に直交する非零ベクトル ''v'' が存在する。ベクトル ''u'' を ''v'' の適当なスカラー倍 λ''v'' として、φ(''v'')&nbsp;= &lang;''v'',&nbsp;''u''&rang; が
:<math> u = \langle v, v \rangle^{-1} \, \overline{\varphi (v)} \, v</math>
を満たすようにする。この対応関係 φ ↔ ''u'' は[[物理学]]ではお馴染みの[[ブラ・ケット記法]]で大いに活用されている。物理学ではふつうは内積 &lang;''x''&thinsp;|&thinsp;''y''&rang; の右側の項に関して線型なので、
275行目:
とすると、この &lang;''x''&thinsp;|&thinsp;''y''&rang; は、ブラベクトルと呼ばれる線型汎関数 &lang;''x''| がケットベクトルと呼ばれるベクトル |''y''&rang; に作用したものと見ることができる。
 
リースの表現定理は内積の存在に関して基本的であるばかりでなく、双対空間の完備性に関しても基本的である。事実、定理からは任意の内積空間の[[位相的双対]]がもとの空間の完備化と同一視できることが導かれる。リースの表現定理から直ちに導かれる結果としては他にも、ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} の[[回帰的空間|回帰性]]、即ち ''{{mvar|H''}} からその二重双対空間への自然な写像が同型となることも挙げられる。
 
=== {{anchors|弱収斂列}}弱収束列 ===
{{main|{{仮リンク|弱収束 (ヒルベルト空間)|en|Weak convergence (Hilbert space)}}}}
ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} において、点列 {''x''<sub>''n''</sub>} がベクトル {{math|''x''&nbsp; ∈ ''H''}} に[[弱位相|弱収束]]するとは、任意の {{math|''v'' ∈ ''H''}} に対し
:<math>\lim_n \langle x_n, v \rangle = \langle x, v \rangle</math>
をみたすことをいう。
286行目:
 
逆に、ヒルベルト空間における任意の有界列は弱収束する部分列を含む({{仮リンク|アラオグルの定理|en|Alaoglu's theorem<!-- リダイレクト先の「[[:en:Banach–Alaoglu theorem]]」は、[[:ja:バナッハ=アラオグルの定理]] とリンク -->}}) <ref>{{harvnb|Weidmann|1980|loc=§4.5}}</ref>。この結果は、'''R'''<sup>''d''</sup> 上の連続関数に対して[[ボルツァーノ・ヴァイエルシュトラスの定理]]を用いるのと同じやり方で、連続[[凸関数]]に対する最小値定理の証明に用いられる。これにはいくらか異なった述べ方があるが、以下のような形が簡便であろう<ref>{{harvnb|Buttazzo|Giaquinta|Hildebrandt|1998|loc=Theorem 5.17}}</ref>
: {{math|ƒ: ''H'' → '''R'''}} が凸関数で、{{math|&#x2016;''x''&#x2016; &rarr; ∞}} のとき {{math|ƒ(''x'') &rarr; +∞}} を満たすとき、{{math|ƒ}}''{{mvar|H''}} の適当な点 {{math|''x''<sub>0</sub> ∈ ''H''}} で最小値を持つ。
 
この事実(とその種々の一般化)は[[変分法における直接法]]の基礎を成している。有界閉凸関数に対する最小値の存在は、もう少し抽象的な、ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} 内の有界閉凸部分集合が ''{{mvar|H''}} の回帰性により[[弱位相|弱コンパクト]]になるという事実からも直接的に得られる。弱収束部分列の存在性は、{{仮リンク|エーベルライン・スムリアンの定理|en|Eberlein–Šmulian theorem}}の特別の場合である。
 
=== バナッハ空間の性質 ===
313行目:
に分解され、各項は互いに可換になる。正規作用素をその実部と虚部とに分けて考えることも有用である。
 
B(''H'') の元 ''U'' が可逆かつその逆作用素が ''U''<sup>∗</sup> で与えられるとき、''U'' は[[ユニタリ作用素|ユニタリ]]であるという。この条件は「''U'' が全射かつ ''{{mvar|H''}} の各元 ''x'', ''y'' に対して &lang;''Ux'', ''Uy''&rang; = &lang;''x'', ''y''&rang; を満たすこと」とも言い換えられる。''H'' 上のユニタリ作用素の全体は、合成に関して ''{{mvar|H''}} の[[等距変換群]]と呼ばれる[[群 (数学)|群]]を成す。
 
B(''H'') の元が[[コンパクト作用素|コンパクト]]であるとは、それが有界集合を[[相対コンパクト]]集合へ写すときに言う。同じことだが、有界作用素 ''T'' について、任意の有界列 {''x''<sub>''k''</sub>} に対して列 {''Tx''<sub>''k''</sub>} が収束部分列を持つとき ''T'' はコンパクトである。多くの[[積分作用素]]はコンパクトであり、事実[[ヒルベルト=シュミット作用素]]として知られるコンパクト作用素のクラスが[[積分方程式]]論において特に重要な働きをする。[[フレドホルム作用素]]は恒等変換の定数倍の分だけコンパクト作用素とは違うけれども、[[核 (数学)|核]]と[[余核]]が有限であるような作用素としても特徴付けられる。フレドホルム作用素の指数 (index) は
320行目:
 
=== 非有界作用素 ===
ヒルベルト空間においては[[非有界作用素]]もある程度きれいに扱うことができ、[[量子力学]]にも重要な応用を持つ<ref>See {{harvtxt|Prugovečki|1981}}, {{harvtxt|Reed|Simon|1980|loc=Chapter VIII}}, {{harvtxt|Folland|1989}}.</ref>。ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} 上の非有界作用素 ''T'' は、その定義域 ''D''(''T'') が ''{{mvar|H''}} の線型部分空間であるような線型作用素であるものとして定義される。定義域が ''{{mvar|H''}} の稠密な部分集合となることもよくあり、そのような作用素 ''T'' は[[稠密に定義された作用素|密定義作用素]]と呼ばれる。
 
密定義非有界作用素の随伴は、本質的に有界作用素の場合と同じ方法で定義される。[[自己随伴作用素|自己随伴非有界作用素]]は量子力学の数学的基礎において可観測量の役割を持つ。ヒルベルト空間 {{math|1=''H'' = ''L''<sup>2</sup>('''R''')}} 上の自己随伴非有界作用素の例としては、
* 微分作用素の適当な拡張 <div style="margin: 1ex 3em;"><math> (A f)(x) = i \frac{d}{dx} f(x),</math></div> ただし、''i'' は虚数単位、''f'' は台がコンパクトな可微分関数。
* ''x'' による掛け算作用素 <div style="margin: 1ex 3em;"><math> (B f) (x) = x f(x).</math></div>
などが挙げられる<ref>{{harvnb|Prugovečki|1981|loc=III, §1.4}}</ref>。これらはそれぞれ、[[運動量]]と{{仮リンク|位置演算子|label=位置|en|Position operator}}の可観測量に対応する。この ''A'' も ''B'' も ''{{mvar|H''}} の全域で定義されてはいないことに注意すべきである。''A'' の場合は微分が存在しないものがあること、''B'' の場合は ''x'' が掛けられた関数が自乗可積分とは限らないことがその理由である。何れの場合にも、引数にとり得る関数全体の成す集合は ''{{mvar|H''}} の稠密な部分集合になる。
 
== ヒルベルト空間の構成 ==
333行目:
で定めたものになっている。より一般に、''i'' ∈ ''I'' を添字とするヒルベルト空間の族 ''H''<sub>''i''</sub> に対して、その(外部)直和 <math>\textstyle\bigoplus_{i\in I}H_i</math> が、''H''<sub>''i''</sub> の[[直積集合|デカルト積]]の元 <math>\textstyle x=(x_i\in H_i\mid i\in I) \in \prod_{i\in I}H_i</math> で条件 <math>\textstyle\sum_{i\in I} \|x_i\|^2 < \infty</math> を満たすもの全体から成る集合を台とし、内積を
:<math>\langle x, y\rangle = \sum_{i\in I} \langle x_i, y_i\rangle_{H_i}</math>
で定めることによって定義される。このとき、各空間 ''H''<sub>''i''</sub> は直和空間の中へ閉部分空間として埋め込まれる。もっと言えば、埋め込まれた各 ''H''<sub>''i''</sub> はどの二つも互いに直交する。逆に、一つのヒルベルト空間において閉部分空間の族 ''V''<sub>''i''</sub> (''i'' ∈ ''I'') で各空間がどの二つも互いに直交しているようなものが与えられているとき、それら全ての和集合が全体空間 ''{{mvar|H''}} の中で稠密になるならば、''{{mvar|H''}} は本質的に ''V''<sub>''i''</sub> たちの直和に同型である。この場合、''H'' は ''V''<sub>''i''</sub> たちの内部直和であると言われる。(内部でも外部でも)直和には、''i''-番目の直和因子 ''H''<sub>i</sub> の上への直交射影 ''E''<sub>''i''</sub> の族が伴う。これらの直交射影はどれも有界・自己随伴かつ[[冪等]]な作用素であって、直交性条件
:<math>E_iE_j = 0\quad (i\ne j)</math>
が成り立つ。
 
ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} 上の自己随伴[[コンパクト作用素]]に対する[[スペクトル論]]によれば、''H'' は或る作用素の固有空間の直交直和に分解され、またその作用素はその固有空間への射影の直和として明示的に表される。ヒルベルト空間の直和は、(素粒子を変数にもつ系の[[フォック空間]]など)量子力学においても用いられ、そこでは直和の各成分たるヒルベルト空間と量子力学系の余剰自由度とが対応する。[[群の表現論|表現論]]における{{仮リンク|ピーター・ワイルの定理|en|Peter–Weyl theorem}}によれば、ヒルベルト空間上で定義される{{仮リンク|コンパクト群|en|Compact group}}の[[ユニタリ表現]]は必ず有限次元表現の直和に分解されることが保証される。
 
=== テンソル積 ===
355行目:
== 正規直交基底 ==
{{main|正規直交基底}}
線型代数学で言うような[[正規直交基底]]の概念を、ヒルベルト空間に対するものへ一般化することができる<ref>{{harvnb|Dunford|Schwartz|1958|loc=§IV.4}}.</ref>。ヒルベルト空間 ''{{mvar|H''}} における正規直交基底とは、''{{mvar|H''}} の元からなる族 {{math|{{mset|''e''<sub>''k''</sub>''}}{{nowrap|<sub>''k'' ∈ ''B''</sub>}} で、条件
# '''直交性''': ''B'' のどの相異なる二元についても、対応する ''{{mvar|H''}} の元は互いに直交する(⟨''e''<sub>''k''</sub>, ''e''<sub>''j''</sub>⟩ = 0 for all ''k'', ''j'' in ''B'' with ''k'' ≠ ''j'')。
# '''正規性''': 族 ''e''<sub>''k''</sub> (''k'' ∈ ''B'') の各元のノルムは 1 である(&#x2016;''e''<sub>''k''</sub>&#x2016;&nbsp;=&nbsp;1 for all ''k'' in ''B'')。
# '''完全性''': 族 ''e''<sub>''k''</sub> (''k'' ∈ ''B'') の[[線型包|張る部分空間]]は ''H'' において[[稠密集合|稠密]]である。
368行目:
正規直交基底の例としては、
* 集合 {(1,0,0), (0,1,0), (0,0,1)} はドット積に関して '''R'''<sup>3</sup> の正規直交基底になる。
* 指数関数列 {''ƒ''<sub>''n''</sub> : ''n'' ∈ '''Z'''} (''ƒ''<sub>''n''</sub>(''x'') = exp(2π''inx'')) は {{math|''L''<sup>2</sup>([0, 1])}} の正規直交基底になる。
等を挙げることができる。