「モンテビデオ」の版間の差分
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|下位区分名4 =
|規模 = 市
|最高行政執行者称号 =
|最高行政執行者名 =
|最高行政執行者所属党派 =
|成立区分 = 建設
|成立日 = [[1726年]]
|総面積(平方キロ) =
|総面積(平方マイル) =
|陸上面積(平方キロ) =
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|市街地面積(平方キロ) =
|市街地面積(平方マイル) =
|都市圏面積(平方キロ) = 1,350
|都市圏面積(平方マイル) =
|標高(メートル) = 43
|標高(フィート) =
|人口の時点 =
|人口に関する備考 = <ref>{{cite web|url=http://www.ine.gub.uy/censos2011/index.html|title=Datos Departamentales Censo 2011|accessdate=2014-02-27|publisher=INE}}</ref>
|総人口 =1,
|人口密度(平方キロ当たり) =
|人口密度(平方マイル当たり) =
|市街地人口 = 1,719,453
|市街地人口密度(平方キロ) =
|市街地人口密度(平方マイル) =
|都市圏人口 = 1,947,604<ref name="Presidencia">[http://www.presidencia.gub.uy/comunicacion/comunicacionnoticias/agenda-metropolitana-uruguay-barcelona-firma-convenio-cooperacion "...el Área Metropolitana de Uruguay nuclea a los departamentos de San José, Canelones y Montevideo..."] Retrieved 10 November 2014.</ref><ref name="INE">[http://www.ine.gub.uy/censos2011/index.html Info censal de departamentos/Data 2011 census]. Retrieved 10 November 2014.</ref>
|都市圏人口密度(平方キロ) =
|都市圏人口密度(平方マイル) =
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|備考 =
}}
'''モンテビデオ'''({{Lang-es|Montevideo}})は、[[ウルグアイ]]の[[首都]]
== 歴史 ==
===
モンテビデオ (Montevideo) という地名の由来には諸説あるが、いずれの説も「山」を意味するモンテがモンテビデオ湾の対岸にそびえるモンテビデオの丘を指すことについては共通している。しかし、ビデオの語源をめぐっては、以下のように複数の説がある<ref>{{cite web |url=http://www.montevideanos.com/index.html |title= Día del Patrimonio |accessdate=17 November 2010|author=Nelson Ormazábal |publisher=montevideanos.com |language=Spanish|quote= Pocas villas con deseos de ser ciudad, tuvieron tantos prenombres hasta llegar al definitivo de Montevideo. Pináculo de la Tentación, Monte de la Detención, Nuestra Señora de la Candelaria, Monte de San Pedro, Santo Vidio, Monte Seredo, Monte Vidi, Monte veo, Montem Video, Monte Vide Eu, Monte Ovidio, Monte VI D. E-O... Tales fueron, entre el viaje de Amerigo Vespucci (1501) y la fundación por Bruno Mauricio de Zabala (1726), las diversas denominaciones que la elevación al oeste de la bahía recibió.}}</ref>。
*Monte Ovidio説 - 現在のモンテビデオ
*Monte VI De Este a Oeste説 - スペイン人が、この土地を地図に記す際にMonte VI De Este a Oeste(東から西に向けて六番目の山だ)と言って記し、それが語源となったとする説。
=== 初期の歴史 ===
[[ファイル:Cerro de Montevideo desde la ciudad. Año 1865.jpg|thumb|left|240px|モンビデオの丘からみた市街地([[1865年]])]]
[[ファイル:Karte Montevideo MKL1888 kl.png|thumb|left|200px|[[1888年]]のモンテビデオ]]
1516年に[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]がここを訪れたが
その後、[[1680年]]に[[ポルトガル]]人が、今のモンテビデオの西に[[コロニア・デル・サクラメント]]を建設する。その後、[[スペイン]]人は[[トルデシリャス条約]]を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年に、ブエノスアイレス総督の[[ブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラ]]がサンホセ要塞を拡大して、都市'''サン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオ'''を建設する。これが現在のモンテビデオ市の基礎となった。
[[1828年]]に
[[1832年]][[7月26日]]から[[8月19日]]まで、[[チャールズ・
19世紀から20世紀のはじめまで、モンテビデオはアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し、[[1869年]]
{{Clearleft}}
=== 20世紀以降 ===
[[ファイル:MontevideoIndependencePlaza1900.jpg|thumb|独立広場([[1900年]])]]
1860年に
[[1939年]][[12月13日]]、[[プンタ・デル・エステ]]沖に現れた[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の[[ドイッチュラント級装甲艦|ポケット戦艦]][[グラーフ・シュペー]]を[[イギリス海軍]]が追撃し、[[ラプラタ沖海戦]]が起きた。海戦の後、艦長の[[ハンス・ラングスドルフ]]大佐はモンテビデオに退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは親英的な立場で中立を貫き、シュペー号は72時間の停泊の後、12月17日にモンテビデオ港外で自沈した。
1950年代には人口が90万人近
2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。近年の経済回復と
== 地理 ==
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== 人口 ==
1860年
2016年現在、モンテビデオ市街の人口は約1,349,000人であるが、モンテビデオ大都市圏全体では1,814,400人が住んでいることになる。モンテビデオ市民は[[ヨーロッパ]]人の影響を特に強く受けており、[[イタリア]]系、[[スペイン]]系の家系が最も一般的だが、その一方で[[アフリカ系ウルグアイ人]]の家系や[[ユダヤ人]]の共同体の存在も重要である。
モンテビデオにはおおまかに言って国民の約44%が居住しており、モンテビデオの郊外と言っても良い[[カネロネス県]]は約12%を占めている。
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== スポーツ ==
[[ファイル:Estadio centenario 2.JPG|thumb|200px|エスタディオ・センテナリオ]]
モンテビデオ市民にとって、最も親し
その他、バスケットボールや競馬なども盛んである。
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主にアルゼンチンとブラジルから観光客がやって来る。ポシトスや旧市街が観光地として有名である。
1月から2月にかけては、約1ヶ月にわたり[[謝肉祭|カーニバル]]の期間となる。特に2月上旬(年により変動)
== 姉妹都市 ==
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