「モンテビデオ」の版間の差分

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市長交代、人口更新
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|下位区分名4 =
|規模 = 市
|最高行政執行者称号 = Municipal Intendent市長
|最高行政執行者名 = Ana Oliveraダニエル・マルティネス
|最高行政執行者所属党派 =
|成立区分 = 建設
|成立日 = [[1726年]]
|総面積(平方キロ) =525.54 194
|総面積(平方マイル) =
|陸上面積(平方キロ) =
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|市街地面積(平方キロ) =
|市街地面積(平方マイル) =
|都市圏面積(平方キロ) = 1,350
|都市圏面積(平方マイル) =
|標高(メートル) = 43
|標高(フィート) =
|人口の時点 =20042011
|人口に関する備考 = <ref>{{cite web|url=http://www.ine.gub.uy/censos2011/index.html|title=Datos Departamentales Censo 2011|accessdate=2014-02-27|publisher=INE}}</ref>
|人口に関する備考 =
|総人口 =1,325305,968082
|人口密度(平方キロ当たり) =26,523726
|人口密度(平方マイル当たり) =
|市街地人口 = 1,719,453
|市街地人口密度(平方キロ) =
|市街地人口密度(平方マイル) =
|都市圏人口 = 1,947,604<ref name="Presidencia">[http://www.presidencia.gub.uy/comunicacion/comunicacionnoticias/agenda-metropolitana-uruguay-barcelona-firma-convenio-cooperacion "...el Área Metropolitana de Uruguay nuclea a los departamentos de San José, Canelones y Montevideo..."] Retrieved 10 November 2014.</ref><ref name="INE">[http://www.ine.gub.uy/censos2011/index.html Info censal de departamentos/Data 2011 census]. Retrieved 10 November 2014.</ref>
|都市圏人口 =
|都市圏人口密度(平方キロ) =
|都市圏人口密度(平方マイル) =
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|備考 =
}}
'''モンテビデオ'''({{Lang-es|Montevideo}})は、[[ウルグアイ]]の[[首都]]であり[[モンテビデオ県]]の県都である。[[メルコスール]]の事務局が置かれている。ウルグアイの南部<ref group=n name=note-1 /> [[ラプラタ川]]の左岸河口に位置し、するウルグアイ最大の都市であり、[[20042011年]]における人口は約132130万人である。ウルグアイ最大の貿易港を兼ね有し、温暖な気候で知られる。
 
美しい砂浜を備え、[[ポシートス]]、[[ブセオ]]、[[マルビン]]、[[プラシャ・デ・ロス・イングレセス]](イギリス人の砂浜)、[[プラシャ・ベルデ]](緑の砂浜)、[[プンタ・ゴルダ]](太い岬)、[[カラスコ (モンテビデオ)|カラスコ]]などの美しいビーチがあり、その他にも観光地として多くの記念碑や博物館、歴史的建造物や通りがある。マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングによると、モンテビデオは[[ラテン・アメリカ]]で最も生活の質が高い都市である<ref name="rrhh">[http://www.mercerhr.com/pressrelease/details.jhtml/dynamic/idContent/1173105 International Mercer of Human Resources]</ref>([[ブエノスアイレス]]と[[サンティアゴ・デ・チレ]]が続く)
世界でも安全な都市の30位に入る。
 
== 歴史 ==
=== 語源地名の由来 ===
モンテビデオ (Montevideo) という地名の由来には諸説あるが、いずれの説も「山」を意味するモンテがモンテビデオ湾の対岸にそびえるモンテビデオの丘を指すことについては共通している。しかし、ビデオの語源をめぐっては、以下のように複数の説がある<ref>{{cite web |url=http://www.montevideanos.com/index.html |title= Día del Patrimonio |accessdate=17 November 2010|author=Nelson Ormazábal |publisher=montevideanos.com |language=Spanish|quote= Pocas villas con deseos de ser ciudad, tuvieron tantos prenombres hasta llegar al definitivo de Montevideo. Pináculo de la Tentación, Monte de la Detención, Nuestra Señora de la Candelaria, Monte de San Pedro, Santo Vidio, Monte Seredo, Monte Vidi, Monte veo, Montem Video, Monte Vide Eu, Monte Ovidio, Monte VI D. E-O... Tales fueron, entre el viaje de Amerigo Vespucci (1501) y la fundación por Bruno Mauricio de Zabala (1726), las diversas denominaciones que la elevación al oeste de la bahía recibió.}}</ref>。
*Monte Ovidio説 - 現在のモンテビデオ (Montevideo) の語源として最小の同意される説は、現在のセロの丘に対して、'''聖オヴィディオ山''' (Monte Ovidio) と命名され、それが変化して都市の名前になったというものであり、する説。市の観光案内でもそは、こように教え説が採用されている<ref name=OriMon />
 
しかし、他にも二つの*Monte vide euがある。第一の説は - [[フェルディナンド・マゼラン]]の艦隊がこの土地を見つけた時に[[ポルトガル語]]で言った、「'''Monte vide eu'''」(eu(我、山を見たり)と述べ、それが語源という説である。第二の説はスペイン人がこの土地を地図に記す際に「'''Monte VI De Este a Oeste'''」(東から西に向けて六番目の山だ)と言て記しからだいうするである
*Monte VI De Este a Oeste説 - スペイン人が、この土地を地図に記す際にMonte VI De Este a Oeste(東から西に向けて六番目の山だ)と言って記し、それが語源となったとする説。
 
=== 初期の歴史 ===
[[ファイル:Cerro de Montevideo desde la ciudad. Año 1865.jpg|thumb|left|240px|モンビデオの丘からみた市街地([[1865年]])]]
[[ファイル:Karte Montevideo MKL1888 kl.png|thumb|left|200px|[[1888年]]のモンテビデオ]]
1516年に[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]がここを訪れたがその後[[チャルーア族]]に殺害されてしまう。1624年に現在のモンテビデオの地に[[グアラニー族]]へのを対象とする[[イエズス会伝道所]]が建設された。
 
その後[[1680年]]に[[ポルトガル]]人が今のモンテビデオの西に[[コロニア・デル・サクラメント]]を建設する。その後、[[スペイン]]人は[[トルデシリャス条約]]を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年にブエノスアイレス総督の[[ブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラ]]がサンホセ要塞を拡大して都市'''サン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオ'''を建設する。これが現在のモンテビデオ市の基礎となった。
 
[[1828年]]に独立したウルグアイが独立すると、その首都となった。
 
[[1832年]][[7月26日]]から[[8月19日]]まで、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の乗ったイギリス海軍の[[ビーグル (帆船)|ビーグル号]]が投錨した。ダーウィンはここを拠点にして周辺、モンテビデオ一帯の調査旅行を行っている。彼は[[バイア・ブランカ]](アルゼンチン)に近いプンタ・プラタで、巨大な化石貧歯類[[メガテリウム]]の、歯の一本ついた顎骨を発見した<ref>パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 37ページ</ref>。ビーグル号は第1回の測量調査を終えて1832年11月14日から27日までの間、2回目の停泊をしている。この間にダーウィンは[[チャールズ・ライエル|ライエル]]の『地質学原理』第2巻を受け取っている<ref>パトリック・トール著、平山廉監修、南條郁子、藤丘樹実訳 『ダーウィン』 《「知の再発見」双書99》 創元社 2001年 38ページ</ref>。
 
19世紀から20世紀のはじめまで、モンテビデオはアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し、[[1869年]] には内陸に向かう鉄道が開通した。
{{Clearleft}}
=== 20世紀以降 ===
[[ファイル:MontevideoIndependencePlaza1900.jpg|thumb|独立広場([[1900年]])]]
 
1860年に579135万7913人だった人口は多くの移民を迎えて、1884年には10447210万4472人になった。移民の大半はスペインおよびイタリアからの出身者であったが、中欧からも多くの移民を受け入れた。[[1930年]]には[[FIFAワールドカップ]]が開催され、初代優勝国の栄冠を勝ち取った。
 
[[1939年]][[12月13日]][[プンタ・デル・エステ]]沖に現れた[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]]の[[ドイッチュラント級装甲艦|ポケット戦艦]][[グラーフ・シュペー]]を[[イギリス海軍]]が追撃し、[[ラプラタ沖海戦]]が起きた。海戦の後、艦長の[[ハンス・ラングスドルフ]]大佐はモンテビデオに退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは親英的な立場で中立を貫き、シュペー号は72時間の停泊の後、12月17日にモンテビデオ港外で自沈した。
 
1950年代には人口が90万人近い人口に達したが、その頃から経済停滞に苦しみ、さらに軍事政権(1973-85年)下の混乱の影響もあって街は衰退し、その後遺症は現在まで続いている。多くの貧しい地方出身者が都市に溢れ、特に旧市街に集中した。2002年にはブラジル、アルゼンチンから波及した経済危機により貨幣価値が下落、物価が高騰した。
 
2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。近年の経済回復とウルグアイの隣国の強力な貿易の結びつきによって、ウルグアイの農業発展を導してており、将来の繁栄が望まれている。
 
== 地理 ==
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== 人口 ==
1860年モンテビデオ市街地における人口は57,913人だった<ref>http://www.tacuy.com.uy/Servicios/Montevideo/index.htm</ref>
 
2016年現在、モンテビデオの市街地に住んでいる人口は約1,349,000人であるが、大モンテビデオ都市圏を加えると1,814,400人が住んでいることになる。
2016年現在、モンテビデオ市街の人口は約1,349,000人であるが、モンテビデオ大都市圏全体では1,814,400人が住んでいることになる。モンテビデオ市民は[[ヨーロッパ]]人の影響を特に強く受けており、[[イタリア]]系、[[スペイン]]系の家系が最も一般的だが、その一方で[[アフリカ系ウルグアイ人]]の家系や[[ユダヤ人]]の共同体の存在も重要である。
モンテビデオにはおおまかに言って国民の約44%が居住しており、モンテビデオの郊外と言っても良い[[カネロネス県]]は約12%を占めている。
 
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== スポーツ ==
[[ファイル:Estadio centenario 2.JPG|thumb|200px|エスタディオ・センテナリオ]]
モンテビデオ市民にとって最も親しみのあるスポーツはサッカーである。[[1930年]]には[[エスタディオ・センテナリオ]]で世界初の[[FIFAワールドカップ]]が開催された。この[[1930 FIFAワールドカップ]]で[[ロス・チャルーアズ]](ウルグアイ代表チームの愛称)は勝利を飾り、ウルグアイは初代優勝国となった。国内リーグにおいては、[[CAペニャロール|ペニャロール]]、[[ナシオナル・モンテビデオ]]などのクラブチームが熱い戦いを繰り広げている。
 
その他、バスケットボールや競馬なども盛んである。
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主にアルゼンチンとブラジルから観光客がやって来る。ポシトスや旧市街が観光地として有名である。
 
1月から2月にかけては、約1ヶ月にわたり[[謝肉祭|カーニバル]]の期間となる。特に2月上旬(年により変動)2日間にわたって行なわれるジャマーダス (Llamadas) は、数十組の打楽器奏者やダンサーからなるパレードからなる祭りでを行い、モンテビデオは賑わいを見せる。
 
== 姉妹都市 ==