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'''安徳王'''(あんとくおう [[544年]]-[[577年]] 在位[[576年]])は中国[[北斉]]6代目皇帝(ただし正史では認められていない)。名は高延宗。[[高澄]]の息子で[[高長恭]](蘭陵王)は兄。崩れ行く北斉を支え続けた人物。
|+ '''[[北斉]] 第六代 [[中国帝王一覧|皇帝]]'''
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| width=71 | 姓名 || 高延宗
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| width=71 | [[年号]] || [[隆化]] [[576年]]-[[577年]]
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| width=71 | [[廟号]] || -
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| width=71 | [[字]] || 仁綱
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| width=71 | [[諡号]] || -
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| width=71 | 生没年 || [[544年]]-[[577年]]
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| width=71 | 在位 || [[576年]]-[[577年]]
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| width=71 | 父 || [[高澄]](第五子)
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| width=71 | 母 || 陳氏
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本来ならば嫡流であったはずなのだが、父親が暗殺されてその弟の[[文宣帝 (北斉)|文宣帝]]が跡を継いだため、傍系になってしまう。しかし、文宣帝から可愛がられ安徳王に封ぜられる。
 
高長恭と[[斛律光]]が粛清され、[[陳]]に侵食されたのを契機に[[北周]]による侵攻が開始される中、必死になって領土を護り力戦するものの衆寡敵せず、軍は壊走し城は落とされていく。とうとう副都[[晋陽]]まで軍勢が達し、[[後主 (北斉)|後主]]に向かって徹底抗戦を主張するものの、後主は全責任を安徳王に押し付けて逃走してしまう。そのため部下の将帥たちから皇帝として擁立され、北周の軍勢に立ち向かうものの大敗北を喫して晋陽は陥落、捕らわれの身になってしまう。
 
'''安徳王'''(あんとくおう [[544年]]-[[577年]] 在位[[576年]])は中国[[北斉]]6代目皇帝(ただし正史では認められていない)。延宗。[[高澄]]の息子で[[高長恭]](蘭陵王)は兄。崩れ行く北斉を支え続けた人物。
その後は賓客としてもてなされるものの死を望んでいた。後に高一族が誅滅にあった時、殺されるとことを潔しとせず自殺する。
 
==略歴==
外見こそ太ってはいたものの熱血漢で後主に直諫し、後主の臣下たちが降伏していく中であくまでも北周に抵抗し続けた。それ故に晋陽にいた将帥や軍士達は皇帝へと祀り上げ、彼のために死力を尽くしたのである。もしも後主の代わりに安徳王が皇位についていたのならこうも簡単に北斉が滅びることもなかっただろう。
本来ならば嫡流であったはずなのだが、父親が暗殺されてその弟の[[文宣帝 (北斉)|文宣帝]]が跡を継いだため、傍系になってしまう。しかし、文宣帝から可の寵がられを受け安徳王に封ぜられる。
 
[[高長恭]]と[[斛律光]]が粛清され、また[[陳]]に侵食されたのを契機に[[北周]]による侵攻が開始された。その、必死になって領土祖廟護り力守るべく奮戦するものの衆寡敵せず北斉軍は壊走し城は落とされ状況が緊迫しいくきたとうとう副都[[晋陽]]までに北周が達するに及び、[[後主 (北斉)|後主]]に向かって対し徹底抗戦を主張するもののしたが、後主は全責任を安徳王に押し付けて逃走してしまう。そのため部下の将帥たちから皇帝として擁立され、北周の軍勢に立ち向かうものの対抗した。結局は北周に大敗北を喫晋陽は陥落、捕らわれの身になってしまう。
それだけに国が滅びてしまっては生きることを潔しとはしなかった。義人といえる。
 
その後は賓客としてもてな待遇されるものの死たがそれ望んでい甘受せず毒薬を仰ぐことが数度あっ後に高一族が誅滅にあっされ際に、殺されるとことを潔しとせず自殺すした
 
==宗室==
===后妃===
李妃
 
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{{先代次代|[[北斉]]の[[中国帝王一覧|皇帝]]|第6代: 576年 - 576年|[[後主 (北斉)|後主]]|[[幼主 (北斉)|幼主]]}}