「桃中軒雲右衛門」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
4行目:
 
== 略歴 ==
[[File:桃中軒雲右衛門-赤垣源蔵徳利の別れ-ライロフォン盤.jpg|thumb|雲右衛門のレコードは複数の会社から出た。ライロフォン(三光堂)盤|100px]][[File:桃中軒雲右衛門片面レコード(ニッポノホン赤盤).jpg|thumb|桃中軒雲右衛門片面レコード (ローヤル(通称:赤鷲印))|100px]]
本名は山本幸蔵(岡本峰吉と称したこともある)。[[群馬県]][[高崎市]]新田町出身。父は地方回りの[[祭文語り]]をしていた[[吉川繁吉]]で、その二男として生まれる。母・ツルは三味線弾きであった。また兄は仙太郎といい幸蔵とともに母に三味線を習った、弟の峰吉は後に兄に感化され桃中軒風右衛門を名乗った。
 
11行目:
[[1903年]](明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた[[宮崎滔天]]や、[[福本日南]]、政治結社[[玄洋社]]の後援で「義士伝」を完成させる。[[武士道]]鼓吹を旗印に掲げ、[[1907年]](明治40年)には[[大阪]][[中座]]や[[東京]][[本郷座]]で大入りをとった。雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の[[劇場]]への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる。
 
当時大人気であったが、要求する吹込料が非常に高額であったため、なかなかレコードが出されなかった<ref name=rclip>[http://www.rclip.jp/activity/column82.html 桃中軒雲右衛門の人気ぶり]、RCLIPコラム(早稲田大学知的財産法制研究所)。(2016/8/14閲覧)</ref><ref>[[倉田喜弘]]『日本レコード文化史』[[東京書籍]](東書選書 124)、1992年、60頁。ISBN 4-487-72224-1。</ref>。そんな中、[[1911年]](明治44年)9月には神戸の時枝商店が「桃中軒雲右衛門節」と銘打った本人によるものではない(「奏演者匿名」と明記)レコードを発売している<ref>倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、83頁。</ref>。ようやく[[1912年]](明治45年)[[5月19日]]、雲右衛門のレコードがライロフォン(三光堂から発売され、これが雲右衛門のレコードデビューとなる。5種の両面レコードが7万2000枚プレスされた<ref name=rclip /><ref>倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、71頁。</ref>。
 
しかし[[1913年]](大正2年)ごろから、肺結核になり、宮崎の説得で何度か入院をしたが元気になるとすぐに巡業に出てしまい、最後に実子の西岡稲太郎が自宅に引き取って看病するが甲斐なく、[[1916年]](大正5年)11月7日に死亡した。大きな足跡を残し、金遣いも非常に荒かったが、晩年は寂しいものであったという。墓所は[[東京都]][[品川区]]の[[天妙国寺]]。戒名は「桃中軒義道日正居士」<ref>大衆芸能資料集成 第六巻 芝清之</ref>。死後、「桃中軒雲右衛門」の名を門下の4人(白雲、雲州、雲大丞、野口洋々)がそれぞれ名乗り、混乱が起きた。