「アルトゥール・ルービンシュタイン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
32行目:
== 経歴 ==
[[ファイル:Pomnik Rubisteina Lodz.jpg|left|thumb|[[ウッチ]]の街角にあるルービンシュタインの彫刻]]
出生名Artur Rubinstein(Arthurではない)として[[ウッチ]]の[[ユダヤ人]]の家庭に生まれ。8人きょうだいの末子で、父は富裕な工場主であった<ref>"Intoxicated with Romance." Time 101, no. 23 (June 4, 1973): 73. Academic Search Premier, EBSCOhost (accessed October 9, 2012).</ref>。ルービンシュタインが2歳の時姉のピアノのレッスンを聴いて、即座にその演奏を魅惑的に再現してせ、[[絶対音感]]とともにピアニストとしても並ならぬ才能の持ち主であることを証明した。ルービンシュタインも4歳の頃までには自ら神童であると自覚していた。[[ハンガリー]]の著名な[[ヴァイオリニスト]]であった[[ヨーゼフ・ヨアヒム]]は4歳のルービンシュタインの演奏を聴いて強い印象を受け、家族に次のように話したという。「この少年はとても偉大な音楽家になるかも知れない ― 確かに彼には才能がある・・・本格的に勉強する年齢になったら私の所に連れて来なさい。私は彼の音楽教育を監督することに喜びを感じることになるだろう」。[[1894年]]12月14日、7歳のルービンシュタインは[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の作品でデビューを飾ったのだった<ref name="Rubinstein, Artur 1973">Rubinstein, Artur. 1973. My young years [by] Arthur Rubinstein. n.p.: New York, Knopf; [distributed by Random House] 1973., 1973. Ignacio: USF Libraries Catalog, EBSCOhost (accessed October 9, 2012).</ref><ref name=rubinsteinalife>{{cite book|last=Sachs|first=Harvey|title=Rubinstein: A Life|year=1995|publisher=Grove Press|location=New York|isbn=978-0802115799|edition=1. ed.|coauthors=with a discography by Donald Manildi}}</ref>。
 
ルービンシュタインは10歳の時[[ベルリン]]に移って音楽の勉強を続け、[[1900年]]、13歳の時に初めて[[ベルリン交響楽団]]と共演を果たす<ref name="nytimes.com"/>。ヨアヒムはルービンシュタインのピアノの師として[[カール・ハインリヒ・バルト]]を推薦した。
 
さらに、ルービンシュタインは[[1904年]]に[[パリ]]に行き[[フランス]]人[[作曲家]]の[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]や[[ポール・デュカス]]、[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]らや、ヴァイオリニストの[[ジャック・ティボー]]と面会する。ルービンシュタインはサン=サーンスの前で、《[[ピアノ協奏曲第2番 (サン=サーンス)|ピアノ協奏曲第2番]]》を演奏した。さらにユリウシュ・ヴェルトハイメル一家を通して、ヴァイオリニストの[[パウル・コハンスキ]]、作曲家の[[カロル・シマノフスキ]]と親交を結んだ<ref name="Sachs 1997">Sachs 1997</ref>。
 
[[1906年]]に[[ニューヨーク]]の[[カーネギー・ホール]]で行なったリサイタルは聴衆に支持されたようだが評論家から批判が相次いだため4年間、演奏活動を中止して自らの技巧・表現に磨きをかけた。ルービンシュタインはその後、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]や[[オーストリア]]、[[イタリア]]、[[ロシア]]で演奏旅行を行なった。しかし[[1908年]]、困窮と絶望と借金取りの厳しい取立てに加え、ベルリンのホテルの部屋の立退きも迫られたルービンシュタインは首吊り自殺を図るが失敗する。だがその直後、自らが生してしれ変わり、人生の無限の愛が授けられたよに感じた、とルービンシュタインは後に語っている。[[1910年]]、第5回[[アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクール]]で優勝するがユダヤ人だったために審査員や聴衆から人種差別を受けたという<ref name=rubinsteinalife/>。[[1912年]]には[[ロンドン]]デビューを果たし、その後同市南西部の[[チェルシー (ロンドン)|チェルシー]]に定住する。同地のドレイパー兄弟のサロンでコハンスキ、[[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]、ジャック・ティボー、[[パブロ・カザルス]]、[[ピエール・モントゥー]]、などと親しく交わった<ref name="Sachs 1997">Sachs 1997</ref>。
 
ルービンシュタインは[[第一次世界大戦]]中は主にロンドンに暮らし、[[ウジェーヌ・イザイ]]の伴奏者を務めた。[[1916年]]から[[1917年]]までスペインや[[南アメリカ|南米]]を旅行し、同地で熱烈な歓迎を受け。また、ルービンシュタインも同時代のスペインや南米の作曲家に熱狂して多くの新作を初演することになる。[[1932年]]にしばらく演奏生活から隠退して、数年のあいだ演奏技巧やレパートリーの改善に取り組んだ。ルービンシュタインはこの年に指揮者[[エミル・ムイナルスキ]]の娘であるアニエラと結婚し、4人の子供をもうけた。娘のエヴァは[[神学]]者・聖職者・反戦運動家のウィリアム・スローン・コフィン師と結婚し、息子[[ジョン・ルービンスタイン|ジョン]]俳優となった。[[第二次世界大戦]]中はアメリカ合衆国に暮らし、[[1946年]]にアメリカ国籍を取得する<ref name="sachs"/>。
 
ルービンシュタインはそのレパートリーの中で、とりわけ[[ロマン派音楽|ロマン派]]の作品を数多く録音した。ルービンシュタインが死んだときの[[ニューヨーク・タイムズ]]の記事には、「ショパンは彼にとって特別の存在だった。多くの人々によって、彼が比類の無い存在として考えられているのは、ショパン弾きとしてのそれである」とまで書かれた<ref name="nytimes.com"/>。ルービンシュタインは[[エチュード]]の一部の作品を除く、ショパンの全作品を録音している。また、ルービンシュタインは、スペインや南米の作曲家、さらにラヴェルや[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]といった、20世紀初頭のフランスの作曲家の最も早い紹介者の一人であった。さらにルービンシュタインの同胞である、シマノフスキの最初の擁護者でもあった。ルービンシュタインは[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]との対話の中で、最も好きな作曲家として[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の名前を挙げ、スクリャービンを激怒させたことがあったという<ref>Artur Rubinstein, ''My Young Years'', quoted in Norman Lebrecht, ''The Book of Musical Anecdotes''</ref>。
 
[[1960年]]、[[ショパン国際ピアノコンクール]]の審査委員長を務めた。このときの優勝者が[[マウリツィオ・ポリーニ]]であり、ルービンシュタインのコメント「我々の誰よりも上手い」により大変有名となった。だが[[1976年]]「[[飛蚊症]]」が原因による[[視力]]喪失により引退となり、ルービンシュタインの最後のコンサートはロンドンの[[ウィグモア・ホール]]で開かれた。
 
ルービンシュタインは8ヶ国語を流暢に話したという<ref name="sachs">{{cite book | first=Harvey | last=Sachs | title=Rubinstein: A Life | pages=8, 265, 269, 275 | location=New York | publisher=Grove Press | year=1995 | isbn=0-8021-1579-9 }}</ref>。また、ルービンシュタインは恐るべき記憶力の持ち主で、ピアノ曲だけではなく膨大な数のレパートリーを持っていた<ref name=sachs /> 。自伝によると、ルービンシュタインは[[セザール・フランク|フランク]]の《[[交響的変奏曲 (フランク)|交響的変奏曲]]》を、コンサートへ向かう列車の中で、ピアノ無しで暗譜した。また、ルービンシュタインは自らの思い出を、まるで写真のように例えば楽譜について語る時は本題とは関係のない譜面に付いたコーヒーのしみについてまで克明に記述した<ref>{{cite news| url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,835163-3,00.html | work=Time | title=Pianists: The Undeniable Romantic | date=February 25, 1966 | accessdate=April 25, 2010}}</ref>。
 
またルービンシュタインは[[聴覚]]も非常に発達しており、心の中で全ての交響曲を演奏することが可能だった。またルービンシュタインは自伝の中で、「朝食の時、私は頭の中でブラームスの[[交響曲]]を演奏していた。その時電話が鳴ったので、受話器を取った。30分後、私は電話で話している間も演奏が続いており、今は第3楽章が演奏されていることに気づいた」と述べている。ルービンシュタインの友人達はよく、[[オペラ]]や交響曲の楽譜から適当なものを抜き出し、ルービンシュタインの記憶力によって演奏させようとした<ref name="nytimes.com"/>。
 
1973年自伝「[https://www.amazon.co.jp/%E8%8F%AF%E9%BA%97%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%97%8B%E5%BE%8B%E2%80%95%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%87%AA%E4%BC%9D-1977%E5%B9%B4-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/B000J8VG2Y/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1469096132&sr=8-1&keywords=%E8%8F%AF%E9%BA%97%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%97%8B%E5%BE%8B 華麗なる旋律]」を執筆し、1982年に[[ジュネーヴ]]で就寝中に息を引き取った<ref name="nytimes.com"/> 。遺体は火葬され、その遺灰はルービンシュタインの遺志により1年後に[[エルサレム]]に埋葬された。
 
== ルービンシュタインと室内楽 ==