「サタクンタ県」の版間の差分
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[[1809年]]、フィンランドが[[ロシア帝国]]に割譲された際に[[スウェーデン]]の統治から離れることになった。この時代の間、この州は遅いながらも工業化を経験、ポリはこの州の最大の工業区となり始め、地力を生かした森林と繊維工業が経済活動を支配するようになる。さらに、ラウマとポリには航路が開かれ、承認が大型の商船団を使い商船を使い、ロシア帝国との商業交易も始まる。1930年まで大型帆船での交易が行われ、それ以後は蒸気船などが国際海上交通を支配し始める。
また、内陸と港町の輸送は主に皮であったが、[[タンペレ]]と[[ポリ (フィンランド)|ポリ]]、[[コケマキ]]と[[
市場的な農地開拓は18世紀の間に始められ、その際に作物輸出がはじめられた。同時期、農業用に森林を整地する事業も進み、大地主から小作人が土地を借りて農業をする形式がはじまる。この地域は19世紀にはいると農村人口が増え、第一次世界大戦中の1918年、フィンランド内戦ではフィンランド赤軍に占拠され、重要地帯となったが、[[マンネルヘイム]]率いる白軍が取り返した。
独立以降、サタクンタの開発はフィンランド型の開発に従っている。1990年代まで農業地帯から工業化された、[[ラウマ]]、[[ハ
1990年代以降この地域の伝統的産業は停滞気味で、この都市の重要性は少し低下した。その理由としてはこの地域に大学がないということである。
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[[サタクンタ]]と、[[南西スオミ]]、[[ポフヤンマー]]、[[ハメ]]南部との正確な境界はどちらかというときちんと定まっている。しかし、ハメ北部 (現在の[[ピルカンマー県]])との境界はそうでは無い。この原因は、スウェーデン統治時代の[[1634年]]に県が初めて導入される前まで、この地域は[[荒地]]で人口も少なく、地域の境界がきちんと決定されたことが無かったことにある。この年、現在のサタクンタ県を含んでいた[[トゥルク・ポリ州]]と[[ウーシマー・ハメ州]]との境界は{{仮リンク|タンメルコスキ|en|Tammerkoski}}によって引かれた。更に問題を複雑にしているのは、[[19世紀]]に[[タンペレ]]とその周辺が[[ハメ州]]に移されたことである。その結果、[[イカーリネン]]と[[パルカノ]] (双方とも[[ピルカンマー県]]所属)は、サタクンタまたはハメ、サタ-ハメ、ピルカンマーの一部であると様々に説明される。
サタクンタ県は、沿岸部と内陸部で全く異なる特徴を持っている。サタクンタ県南部の沿岸地方のほとんどは[[ラウマ]]の[[列島]]に挟まれている。しかし、北部へ向かうと、沿岸に[[島]]はほとんどなくなる。また、[[海底]]は平坦で、現在でも続く隆起は、一人の一生で知覚することができるほどである。県北部の沿岸地域において重要な特徴は、[[ポリ (フィンランド)|ポリ]]北東部の[[:fi:Kokemäenjoki|
== 下位行政区 ==
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