「広島港」の版間の差分

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[[明治]]以降、広島は都市として栄えていった。ただ太田川河口は堆積土砂による遠浅のため大きな船舶の通行ができないことから近代的な貿易港整備の必要性に迫られ、行政に対し地元より要望が出されるようになった<ref name="HM978429">{{Cite book|和書 |author = 内務省土木局 |title = 日本の港湾 |volume = 第2巻 |origdate = 1924 |url ={{NDLDC|978429}} |accessdate = 2014-02-26 |pages = 337-348}}</ref>。更に当時、[[廃藩置県]]以降の旧広島藩士に対する[[秩禄処分|士族授産]](士族への生活救済政策)として大規模な政策が考えられていた最中であった<ref name="ph76355" />。
 
1880年(明治13年)、[[千田貞暁]]が広島県令(知事)に就任するとその要望に答え整備に向け動き出す<ref name="HM978429" />。1881年(明治14年)から19841884年(明治17年)にかけて基本計画を[[内務省 (日本)|内務省]]の[[お雇い外国人]]である[[ローウェンホルスト・ムルデル]]技師が作成、1884年9月千田を発起人として[[宇品]]にて築港事業が着工した<ref name="HM978429" /><ref name="lib06">{{Cite web|publisher=土木学会|url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/furuichi/lib06.html|title=明治の港湾建設-宇品港|accessdate=2014-02-26}}</ref>。当初予算は8万7,000円、財源には地元からの寄付や旧広島藩主[[浅野長勲]]が旧藩士に与えようとした士族授産補助金が当てられた<ref name="HM978429" /><ref name="lib06" />。新しい技術として、潮止めには[[服部長七]]が考案した"長七たたき"が用いられている<ref name="lib06" />。
 
1885年(明治18年)、[[明治天皇]]山陽道巡幸において、広島からの[[呉市]]への[[行幸]]出発点として当時工事中であった宇品港が選ばれている<ref>{{Cite web|publisher=広島市|url=http://www.city.hiroshima.lg.jp/minami/gaido/map/eki/12/index.html|title=みなみ区回遊MAP|accessdate=2014-03-04}}</ref>。
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