「斯波兼頼」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
24行目:
 
== 生涯 ==
伯父[[斯波高経|高経]]、父家兼とともに[[越前国]]に逃れた[[新田義貞]]と戦い、兼頼の配下が義貞を討ち取ったと言われている。源氏累代の名刀「[[鬼切]]」は兼頼の手に渡り最上氏の[[家宝]]となった。家兼が北陸から[[陸奥国|奥州]]に移ると、兼頼も共に下向する。[[延文]]元年([[1356年]])、出羽地方の[[北朝 (日本)|北朝]]方として[[寒河江氏|寒河江大江氏]]、[[山家氏]]などの[[南朝 (日本)|南朝]]方の抵抗を抑えるために、[[出羽国]][[按察使]]と称して出羽国[[最上郡]]山形(現・[[山形県]][[山形市]])に入部し、翌年には[[山形城]]を築いた城し本拠とする

[[貞治]]6年([[1367年]])に[[鎌倉公方]]の[[足利基氏]]が死去した後、出羽を含む東国の各地で南朝方が蜂起したが、[[漆川の戦い]]において、鎌倉公方を継いだ[[足利氏満]]や、兄で[[奥州探題]]の[[大崎直持]]と共に南朝方の寒河江大江氏を攻撃し降伏させた。また、近隣の[[天童氏|里見氏]]に弟の[[斯波義宗|義宗]]を養子に送り、一門とするなど武力政策と婚姻・養子政策を駆使し、山形斯波氏(後の最上氏)の基礎を築いた。兄の直持は[[奥州管領]]家の[[大崎氏]]の祖となった他、弟の[[斯波持義|持義]]、[[斯波将頼|将頼]]らも奥州に子孫を残したとされ、足利一門の名家という出自を思わせる。

[[応安]]6年([[1373]])頃には[[室町幕府]]より[[屋形|屋形号]]を許されて'''最上屋形'''と称したことを機に所領の最上郡に因んで苗字を最上氏とした。

[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])、嫡男の[[最上直家|直家]]に家督を譲って以降は城内に草庵を結び念仏三昧の日々を送った。
 
子孫の最上氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]][[最上義光]]の出現によって飛躍的に領土を広げ、[[江戸時代]]初期に[[江戸幕府|幕府]]によって[[改易]]されるまで、現在の[[山形県]]内陸部の[[米沢市|米沢地方]]を除く、[[村山地方]]、[[最上地方]]、[[庄内地方]]を支配した。