「岡倉天心」の版間の差分

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* [[1888年]](明治21年)、明治を代表する文部官僚で男爵の[[九鬼隆一]]は岡倉のパトロンであったが、その妊娠中の妻[[九鬼波津子|波津子]]と恋に落ちる。波津子は隆一と別居し、のち離縁する。離縁後に生まれた子が、有名な哲学者[[九鬼周造]]である。彼は、子供の頃訪ねてくる天心を父親と考えたこともあったと記している。10月、博物館学芸員に任命され、年間300円の手当を得る<ref>[{{NDLDC|1920380/107}} 博物館学芸委員任命]新聞集成明治編年史. 第七卷、林泉社、1936-1940</ref>。
* [[1889年]](明治22年)、美術雑誌『[[国華]]』創刊。5月、[[帝国博物館]]理事に任命<ref>[{{NDLDC|1920380/164}} 帝国博物館]新聞集成明治編年史. 第七卷、林泉社、1936-1940</ref>。12月、大博覧会美術部審査官となる<ref>[{{NDLDC|1920380/202}} 大博覧会美術部審査官任命]新聞集成明治編年史. 第七卷、林泉社、1936-1940</ref>。
* [[1890年]](明治23年)、東京美術学校初代校長に岡倉天心([[浜尾新]]は校長事務取扱に留まり、事実上の初代校長は岡倉天心<ref>大学Times特集記事大学ism東京藝術大学、ブリタニカ国際大百科事典、新世紀ビジュアル大辞典(学研)</ref>、副校長はフェノロサ)。27歳のこの頃が最も活動がさかんであった。同校での美術教育が特に有名で、[[福田眉仙]]、[[横山大観]]、[[下村観山]]、[[菱田春草]]、[[西郷孤月]]らを育てたことで知られる。
* [[1897年]](明治30年)、『日本帝国美術歴史』の編纂主任になる<ref>[{{NDLDC|1920411/61}} 日本帝国美術歴史、農商務省で編纂]新聞集成明治編年史. 第十卷、林泉社、1936-1940</ref>。
* [[1898年]](明治31年)、東京美術学校を排斥され辞職。同時に連帯辞職した大観らを連れ、[[日本美術院]]を[[下谷区]][[谷中 (台東区)|谷中]]に発足させる。