「藤原義江」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 流浪時代 ===
[[1898年]](明治31年)、山口県下関市で[[貿易|貿易商]]([[フレデリック・リンガー#ホーム・リンガー商会|ホーム・リンガー商会]])を営んでいた28歳の[[スコットランド人]]、[[ネール・ブロディ・リード]]と、同地で活動していた23歳の[[琵琶]][[芸者]]、坂田キクとの間に[[大阪]]で生まれた。出生地・大阪は母キクの実家であったが、リードから手切れ金あるいは認知料の類を受け取ることもなかったキクは、その後、[[九州]]各地を転々とする。義江が7歳程の時、現在の[[大分県]][[杵築市]]の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という[[姓]]を得、またはじめて日本[[国籍]]を得ることとなった。その後、[[大阪市]][[北新地]]へ移った母につき従い、学校にも通わず給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れる。
 
11歳の時、父リードとはじめて対面、以後養育費を受けることとなる。義江は[[東京]]に移り、[[暁星小学校]]、[[明治学院高等学校|明治学院中等部]]、[[早稲田実業学校]]、[[京北中学校・高等学校|京北中学]]など私立学校を転々とするが、この歳まで未就学だったことと、両親の愛情が欠落していたことが災いしてか、どこでも不良生徒とみなされ(実際、義江の金銭浪費の激しさと女性関係の多彩さは生涯一貫していた)長続きしなかった。