「ネルソン・マイルズ」の版間の差分

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[[1886年]]、[[アリゾナ州]]における[[ジェロニモ]]たち[[アパッチ族]]の抵抗戦([[アパッチ戦争]])に対する軍指揮官として[[ジョージ・クルック]]将軍と交代した。クルックはチリカーワ・アパッチ族指導者を捕まえるための行動でアパッチ族斥候に過度に頼りきっていた。マイルズはその代わりに白人部隊に頼り、過酷な[[シエラマドレ山脈]]でジェロニモたちを追って3,000マイル (4,800 km) も動き回ったが虚しかった。最終的に[[アパッチ]]族のやり方を学んでいたチャールズ・W・ゲイトウッド少尉が、ジェロニモとその追随者達は[[フロリダ州]]の居留地に追放監禁されるという条件でその降伏を交渉することに成功した。この追放者の中には陸軍のために働いたチリカーワ族の者まで含まれており、マイルズが彼らと同意したことを破っていた。マイルズはゲイトウッドが交渉に成功した功績を否定し、ゲイトウッドをダコタ準州に転籍させた。この作戦の間、マイルズの特殊信号部隊が日光反射信号機を広範に活用し、野戦における有用性を証明した<ref name="Coe"/>。特殊信号部隊はW・A・グラスフォード大尉の指揮下にあった<ref name="Coe"/>。
 
[[1890年]]、北西部一帯を「ゴースト・ダンス」と呼ばれる新興宗教信仰が席捲。白人に対して反抗的な教義を重く見た連邦政府の命で、マイルズは以前の勤務地に戻ったが、[[スー族]]を随わせようというマイルズの行動が、ビッグ・フット酋長の死と約300名の虐殺に繋がった。これは[[1890年]][[12月29日]]の「[[ウンデット・ニーの虐殺|ウンデッド・ニーの虐殺]]」と呼ばれ、犠牲者のほとんどは女性や子供だった。マイルズは直接「ウンデッド・ニーの虐殺」に関ってはいなかったので、その時の指揮官を批判した。マイルズは全体としてアメリカはインディアンに関する権限があるとの持論を持ち、スー族を米軍の支配下におこうとした。
 
== 米西戦争とその後の人生 ==