「イワン・ヴィシネグラツキー」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[ソ連]]時代より、[[半音]]よりも狭い音程による「超半音階技法(ウルトラクロマティシスム)」を理論的に体系化し、その後は[[微分音]]音楽の追究者として有名になる。4分の1音程から、1[[オクターブ]]を71等分した音階までを発案する。父親は銀行家。同名の祖父は数学者で、[[1888年]]から[[1892年]]まで[[大蔵大臣]]を務めた。当初は[[法律学]]を学んだが、[[ペテルブルク音楽院]]に転学して[[1911年]]から[[1914年]]まで[[ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ソコロフ|ニコライ・ソコロフ]]に師事。[[ペテルブルク]]で[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]の作品を知り、強烈に影響を受ける。[[1916年]]から[[1917年]]にかけて作曲した自作詩による[[オラトリオ]]《存在の日([[仏語]]:''La Journée de l'Existence'')》では、終結において12すべての12の音を縦に連ねた<ref>これは[[トーアレクサドルクラクリャビン]]の未完の神秘劇序幕のオーケストラパートからの直截な影響である。スクリャービンが12の音すべてを使った和音を考案していたことは、ヨーロッパでは未開でもロシアでは広く知られていた。</ref>和音が5オクターブにわたって鳴り渡る響く。ヴィシネグラツキーがそののち10年間に発展させた「音響連続体」という概念から、微分音程と超半音階理論による数多くの作品が成立した。もっともそれらの作品は、音楽界ではヴィシネグラツキーの晩年になるまで注目されなかった。
 
[[1920年]]に[[ソビエト連邦|ソ連]]から[[パリ]]に亡命。[[1922年]]、リヒャルト・シュタイン、[[アロイス・ハーバ]]、ヴィリー・メレンドルフ、イェルク・マーガーら微分音の作曲家に会いに[[ベルリン]]を訪れ、[[四分音]]に取り組む。ハーバと四分音ピアノを共同制作する計画であったが、部分的には技術的な理由から、部分的には[[ビザ]]の問題から、目論見は頓挫し、パリに引き返さざるを得なかった。<ref>[http://www.ivan-wyschnegradsky.fr/en/biography/ ivan-wyschnegradsky]</ref>その後も引き続いて四分音ピアノの製造の研究は、なかなか芳しい解決には至らず、[[1927年]]にドイツのピアノ製造会社フェルスター社に四分音ピアノの製造を依頼。[[1928年]]にフェルスター社がハーバと共同開発した3段式四分音ピアノを、[[1930年]]までに購入した。