「フェルッチョ・ブゾーニ」の版間の差分

 
==生涯==
===デビューまで===
本名は'''ダンテ・ミケランジェロ・ベンヴェヌート・フェッルッチョ・ブゾーニ''' (Dante Michelangelo Benvenuto Ferruccio Busoni) 。作曲家として[[新古典主義音楽]]を提唱し、[[電子音楽]]や[[微分音]]による作曲など、未来の音楽像を描き出してみせた。[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]や[[カール・ニールセン|ニールセン]]、[[マックス・レーガー|レーガー]]、[[アルベリク・マニャール|マニャール]]、[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[バルトーク・ベーラ|バルトーク]]など、ブゾーニの尽力によって世界の檜舞台に出た作曲家は少なくない。
===デビュー===
イタリアに生まれ、少年時代をほとんど[[トリエステ]]に過ごす。母親アンナ・ヴァイス=ブゾーニはトリエステ出身のプロのピアニストで、祖父ジュゼッペ・ヴァイスを通じてユダヤ人の血を引いている<ref>Della Couling: ''Ferruccio Busoni: "a musical Ishmael"'', p.352, Scarecrow Pr, 2004.</ref>。
 
イタリアに生まれ、少年時代をほとんど[[トリエステ]]に過ごす。母親アンナ・ヴァイス=ブゾーニはトリエステ出身のプロのピアニストで、祖父ジュゼッペ・ヴァイスを通じてユダヤ人の血を引いている<ref>Della Couling: ''Ferruccio Busoni: "a musical Ishmael"'', p.352, Scarecrow Pr, 2004.</ref>。イタリア人の父親フェルディナンド・ブゾーニはプロの[[クラリネット]]奏者をつとめるかたわら、画業もこなし、ブゾーニの少年時代に両親はしばしば演奏旅行を行なった。ブゾーニは神童で、7歳の若さで両親の公開演奏会においてデビューを果たした。数年後には[[ウィーン]]で自作のいくつかを演奏し、[[フランツ・リスト]]のピアノ演奏にも接した。ウィーンでは、リストや[[ヨハネス・ブラームス]]、[[アントン・ルビンシテイン]]にも面会している。リストは、ブゾーニの演奏の真価について消極的な返事を出したらしいが<ref>全音版パガニーニ練習曲のブゾーニの略歴</ref>、一方のブゾーニは、「リストのピアノ曲は、ピアノ芸術の[[Α|アルファ]]にしてオメガである」と最大限の賛辞<ref>Busoni and the Piano: The Works, the Writings, and the Recordings - Contributions to the Study of Music and Dance... by Larry Sitsky</ref>を捧げており、リストのピアノ曲の校訂・編曲も手懸けている。
 
わずか13歳で《24の前奏曲》Op.37を完成、そのほか大量にピアノ作品を作曲したが「少年期の作品はあまり意味がない」とブゾーニはこの時期の作品の完成度に否定的であった。その後、彼の周囲に作曲とピアノで並ぶものはいなくなり、{{仮リンク|アントン・ルビンシテイン国際音楽コンクール|en|Anton_Rubinstein_Competition}}の作曲部門とピアノ部門の両部門に挑戦し、作曲部門は優勝(《ピアノと管弦楽のための[[コンツェルトシュテュック]]》Op.31a)、ピアノ部門は第二位という結果を得て若手のホープに躍り出た。
ブゾーニのピアノ作品が評価されるようになったのは、[[グンナー・ヨハンセン]]がアメリカでLPを連続して発売したころからであるが、その時点でもブゾーニ演奏はメジャーにならなかった。その状況が破られたのは[[ジョフリー・ダグラス・マッジ]]がCD6枚組でフィリップスより少年期の作品から壮年期までを収録した音源をリリースしたころからである。[[ポール・ジェイコブス]]、{{仮リンク|アーシュラ・オッペンス|en|Ursula Oppens}}、[[マルカンドレ・アムラン]]、{{仮リンク|ヴォルフ・ハーデン|en|Wolf_Harden}}、[[ギャリック・オールソン]]ほかのピアニストがその流れに乗ったが、ピアノ作品全集を個人で達成した人物はまだ誰もいない。
 
著作権がとうの昔に失効したにもかかわらず、完全個人全集を作る動きがイタリアやドイツに全くなく、研究は難航している。これは、ドイツやイタリアの楽壇とは無縁で国際的に活動したため、パトロンが皆無であった点があげられる。[[IMSLP]]が一度閉鎖になった時に、「ブゾーニの楽譜が表紙から完全にスキャンされて無断でアップロードされている」というクレームがブライトコップフ・ウント・ヘルテル社によって行われたが、著作権の失効していることを理由にこれについては撥ね付けた。ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社は長年絶版になっていた作品を復刻していることもあり、現在は和解が成立している。[[リコルディ]]社や初期作品を出版したマイナーな出版社からはなんのクレームもなかった。
 
==作風==
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