「後深草天皇」の版間の差分

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== 略歴 ==
寛元元年(1243年)6月、外祖父・[[太政大臣]][[西園寺実氏|実氏]]の今出川邸第にて誕生、生後2ヶ月で[[立太子]]。同4年([[1246年]])正月、後嵯峨天皇の[[譲位]]により4歳で[[践祚]]・[[即位]]。在位中は後嵯峨上皇が[[院政]]が敷き、直接政務を見ることはかった。正元元年([[1259年]])に瘧病を患い、同11月、後嵯峨上皇の要請で、17歳で[[亀山天皇]]に譲位。
 
この間に、[[鎌倉幕府]]による[[朝廷]]への介入が進み[[院評定制]]が置かれ、院政もまた幕府の管理下に入った。建長4年([[1252年]])には、後嵯峨上皇の皇子で異母兄の[[宗尊親王]]が[[征夷大将軍|将軍]]として[[鎌倉]]に迎え入れられている。
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文永5年([[1268年]])に、後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子熈仁を差し置いて亀山天皇の皇子世仁親王が立太子した。ここから、後深草上皇の血統([[持明院統]])と亀山天皇の血統([[大覚寺統]])の対立が始まる。同9年([[1272年]])、後嵯峨法皇が治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で崩御すると、幕府は後深草上皇・亀山天皇の兄弟どちらとも決めかねて、2人の母后・大宮院に諮問し、法皇の素意が亀山天皇親政にあるとの返答を得て、2年後、文永11年([[1274年]])1月、亀山天皇は後宇多天皇に譲位し、治天の君として院政を開始した。これに不満を抱いた後深草上皇は、翌建治元年(1275年)、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、時の[[関東申次]]で後深草上皇寄りの[[西園寺実兼]]が執権北条時宗と折衝し、後深草上皇の皇子熈仁親王([[伏見天皇]])を同年中に立太子させることに成功した。その後、弘安3年([[1280年]])頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と皇太子擁立の動きが強まり、ついに同10年([[1287年]])10月、伏見天皇即位に伴い院政を開始した。また正応2年(1289年)10月には第六皇子・[[久明親王]]を鎌倉将軍として下向させ、その後しばらく持明院統に有利な体勢が続いた。
 
正応3年([[1290年]])2月、[[出家]]し法諱を素実とし、公式の院政を停めたが、その後も政治への関与が続き、持明院統の中心としてその繁栄につとめた。嘉元2年([[1304年]])、冷泉富小路殿で崩御、享年62。
 
なお、後深草天皇は幼少時に[[覲子内親王|宣陽門院]]の猶子となり、建長3年([[1251年]])にその所領・[[長講堂領]]を譲渡された。当初はこの荘園群も院政を敷いていた父・後嵯峨院の管轄のもとにあったが、文永4年([[1267年]])に後嵯峨院は出家に先立ち、長講堂領の一切の権利を後深草院に譲渡した。以降は、後深草天皇の子孫・持明院統の天皇に受け継がれ、持明院統の主な経済基盤になった。
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** 第二皇女:貴子内親王(1262-1273)
** 皇女某(1265-1266)
** 第三皇女:[[れい子内親王|<span lang="zh">姈</span>子内親王]](遊義門院、1270-1307) - [[後二条天皇]]准母(?)[[皇后|皇后宮]]、のち[[後宇多天皇|後宇多上皇]]妃
* 女院:[[洞院いん子|藤原(洞院)<span lang="zh">愔</span>子]](玄輝門院、1246-1329) - [[洞院実雄]]女
** 第二皇子:熈仁親王([[伏見天皇]]、1265-1317)