「育徳帝」の版間の差分
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嗣徳帝には子がなく、3人の甥を養子にしていたが、育徳帝はその中で最年長であった。嗣徳帝は育徳帝の言動や行動に不満を持ち、後継者候補から外そうとしたことがあったが、母親の慈裕皇太后に反対された。1883年、嗣徳帝は重病に陥った際、やむを得ず遺詔で育徳帝を後継者に指名した。しかしその文中に否定的な評価があったため、遺詔を朗読するとき、育徳帝はその部分を削除することを求めた。
嗣徳帝の本来の意は最も幼いが聡明な[[建福帝]]にあったとされ、{{仮リンク|阮文祥|vi
阮朝の皇帝は元号で呼ばれるが、元号も定められなかったため、生前起居していた宮中の育徳堂にちなんで'''育徳帝'''と称されている。のちに子の[[成泰帝]]が立つと、'''恭宗'''・'''恵皇帝'''の[[廟号]]・[[諡号]]が追贈された。
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{{阮朝の君主}}
{{DEFAULTSORT:いくとくてい}}
[[Category:阮朝の
[[Category:1852年生]]
[[Category:1883年没]]
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