「日本進歩党」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
28行目:
翌年1月の[[公職追放|公職追放令]]によって町田以下、274人中260人が[[公職追放]]され<ref>{{Harvnb|澤|1994|p=4}}</ref>、残ったのは斎藤隆夫総務委員・[[犬養健]]・[[逢沢寛]]・[[一松定吉]]・[[保利茂]](なお犬養・保利は後に追放された)らわずか14人の議員だけであった。
 
しかし、同年4月の総選挙では追放された候補者の代わりに新人を多数擁立する<ref>{{Harvnb|澤|1994|p=5}}</ref>。結果94人を当選させるも、[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]に次ぐ第2党に転落した<ref>{{Harvnb|澤|1994|p=6}}</ref>。斎藤らは民政党やその前身であった旧[[憲政会]]の内閣で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]を務めた事もある[[幣原喜重郎]]首相を総裁に擁立する。そして、日本自由党で[[幣原内閣]]延命を図ったが、猛反発を受けて失敗した。次いで成によりした[[第1次吉田内閣]]の与では日本自由党と連立政権を構成し、与党に留まった<ref>{{Harvnb|澤|1994|p=17}}</ref>。
 
1947年、[[吉田茂]]総裁に不満を抱く[[芦田均]]ら[[日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]内の反主流派と合同して[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]として再出発を図る事となった。