「上原正吉」の版間の差分
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|生年月日 = [[1897年]][[12月26日]]
|国略称 = {{JPN}}
|出生地 = [[埼玉県]][[北葛飾郡]][[
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1897|12|26|1983|3|12}}
|死没地 =
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== 来歴・人物 ==
[[埼玉県]][[北葛飾郡]][[田宮村]](現在の[[杉戸町]])に、小学校教師の六男として生まれる。幼くして両親と死別し、高等小学校卒業後兄を頼って上京、[[1914年]]錦城商業学校を卒業する。数箇所の職場を転々とした後、翌[[1915年]]に、「大正製薬所(現:大正製薬)」新聞広告を見て応募し、創業者である石井絹治郎にその素質を見出され就職する。入社後、住み込みの丁稚奉公をしながら薬学の知識を得るため石井の母校である[[明治薬学校]](現・[[明治薬科大学]])夜間部で学び([[1918年]]卒業)、石井の懐刀として働きまわる。[[1928年]]に株式会社に改組されると取締役に抜擢され、戦後の[[1946年]]社長に就任する。社長となったのは、石井の死去3年後だった。社長に就任する際、株で半ば強引に乗っ取り、その後、当時多数勤務していた創業者一族である石井家の親族を大幅に解雇するなど、創業者一族である石井家とその親戚筋とは確執がある。
以後、「ゴッドマザー」と称された小枝夫人(後の名誉会長)とともに、お互い庶民の出であったため、閨閥戦略で同族経営に邁進する。「飲まず吸わず遊ばず」をモットーとして無借金経営に徹しながら、問屋を通さない直販体制の整備、栄養ドリンク「[[リポビタンD]]」の大ヒットにより、同社を高収益の大企業に成長させた。[[1973年]]に社長を長男の[[上原昭二|昭二]]に譲り会長となる。
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== その他 ==
* [[大正製薬]]の社章「ワシのマーク」について、マークが制定された[[1955年]]当時社長であった上原正吉が、自身の出身地である
* 大の[[演歌]]好きとしても有名であり、『[[演歌の花道]]』([[テレビ東京]]系)は上原の肝いりにより、大正製薬の一社提供番組として制作されたことで知られる。
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