「伊号第五十三潜水艦」の版間の差分

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3月30日、伊53は回天特別攻撃隊(多々良隊)の回天6基を積んで大津島を出港し、[[光市|光]]へ航行しながら[[祝島]]付近で潜行試験を実施して浮上したところ、[[B-29 (航空機)|B-29]]が敷設した磁気機雷に触れて中央部耐圧タンク、重油タンクを損傷。これにより4月1日に呉に入港し、呉工廠で修理を受ける。
 
7月9日、伊53は呉を出港し、13日に大津島に到着。14日、回天特別攻撃隊(多聞隊)の回天6基を搭載して大津島を出港し、[[台湾]]南東方面に進出。7月24日1400、ルソン島沖で敵輸送船団を発見。遠ざかる輸送船団へ向け1番艇の[[勝山淳]]中尉(海兵73期)艇を1425に発進した。同艇はアメリカ護衛駆逐艦'''[[アンダーヒル (護衛駆逐艦)|アンダーヒル]]''' (''USS Underhill, DE-682'') を撃沈した。これは現在のところ回天の操縦者と具体的な戦果が結びついた唯一のケースとなった。7月27日1300、聴音からの「どうも周りが異常にザワザワしている」との報告があり、慎重に潜望鏡観測をしたところ、南下中の規模輸送船団の内部にいることが判明。直ちに伊53は静かに、急いで総員配置に就いた。艦長の大場佐一少佐は咄嗟のことであり、またあまりにも至近距離であるために魚雷も回天も使えず、一旦輸送船団の外に出てから攻撃しようと判断した。一方、船団側も潜望鏡を発見したらしく、兵員が砲を操作する姿が見えたが、密集した船団であるため砲撃すれば味方を傷つける。同じ理由で爆雷攻撃もできない。回避しようとして隊列を乱せば衝突する危険があるので、こちらも攻撃ができない状況となっていた。これにより伊53は敵からの攻撃を受けることなく、舶団の後方に離脱したものの、攻撃準備が整ったときは距離が開いており、魚雷攻撃は難しくなっていた。そのため、2番艇の川尻勉 一飛曹([[海軍飛行予科練習生|甲飛]]13期)艇を発進。1時間後に爆発音と目標の方向に上がる黒煙を確認した。8月4日0030、台湾南東400浬地点を潜航哨戒中の伊53は突然爆雷攻撃を受ける。これは、[[沖縄]]から[[レイテ島|レイテ]]に向かっていたLST25隻で編成された輸送船団を護衛していた米護衛駆逐艦[[アール・V・ジョンソン (護衛駆逐艦)|アール・V・ジョンソン]] (''USS Earl V. Johnson, DE-702'') が0023に伊53を発見していたためで、同艦は船団を退避させて爆雷攻撃を行っていた。 0140には同じ船団を護衛していた米指揮護衛艇[[サマーズワース (救難護衛艇)|PCE(R)-849]]もやってきて爆雷攻撃に参加する。
 
伊53は頻繁な転舵と深度変更で爆雷を回避するも、爆雷が艦底の近くで爆発し、主蓄電池が破損した。これにより一切の動力が停止して行動不能となり、艦内の電灯は消えた。それでも、乗員の必死の応急修理で何とか動力を回復できた。このままではいずれ撃沈されると判断した大場艦長は回天の発進準備を命じた。0230、5番艇の関豊興少尉(兵科1期)艇が発進。20分後、爆発音を聴取した。この頃、アール・V・ジョンソンは左舷側方から迫る魚雷を発見した。この「魚雷」は艦首前方至近を通過し、数秒後爆発して大きな黒煙を上げた。