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{{出典の明記|date=2015年1月}}
'''統制派'''(とうせいは)は、[[大日本帝国陸軍]]内にかつて存在した[[派閥]]。当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが<ref>池田純久 『日本の曲り角』 千城出版 1968年</ref>、あくまでも国家改造のため直接行動も辞さなかった[[皇道派]]青年将校と異なり、その態度を一変し、[[陸軍大臣]]を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る'''「高度国防国家」'''の建設を目指した。
 
==内容==
天皇[[親政]]の強化や[[財閥]]規制など政治への深い不満・関与を旗印に結成され、[[陸軍大学校]](陸大)出身者がほとんどいなかった皇道派に対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる。皇道派の中心人物である[[荒木貞夫]]が陸軍大臣に就任した[[犬養内閣]]時に断行された露骨な皇道派優遇人事に反発した陸軍中堅層が結集した派閥とされるが、皇道派のような明確なリーダーや指導者はおらず、初期の中心人物と目される[[永田鉄山]]も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」が実態だとする考え方も存在する。ただ永田亡き後、統制派の中心人物とされた[[東條英機]]などの行動や主張が、そのまま統制派の主張とされることが多い。
 
軍閥として、皇道派は存在したが、統制派というまとまりは存在しなかったとの主張も多い。[[安倍源基]]は、皇道派青年将校が反感を抱いていた[[陸軍省]]と[[参謀本部]](省部)における陸大出身者幕僚が漠然と統制派と呼ばれるようになっただけであると述べている<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author= 安倍源基|authorlink= |coauthors= |translator= |year= 2006|title= 昭和動乱の真相|publisher= 中公文庫|page= 174|id= |isbn= 4122062314|quote= }}</ref>。
 
[[二・二六事件]]に失敗・挫折した皇道派の著しい勢力弱体や世界の列強各国での[[集産主義]]台頭、他、[[世界恐慌]]に対し有効性を示した[[ブロック経済]]への羨望が進むにつれ、当初の結成目的・本分から徐々に外れ、合法的に政府に圧力を加えたり、あるいは持論にそぐわない政府の外交政策に対し[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯]]を盾に公然と非協力な態度・行動をとったりサボタージュも厭わない[[軍閥]]へと変容していった。[[革新官僚]]とも繋がりを持つ軍内の「近代派」であり、近代的な[[軍備]]や産業機構の整備に基づく、[[総力戦]]に対応した高度国防国家を構想した。旧[[桜会]]系統の[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]、陸軍省の佐官クラスの幕僚将校を中心に支持されていた。中心人物は永田鉄山、東條英機。