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'''シェイヒュルイスラーム'''(
== 概要 ==
必要であれば宗教についての問題に関して[[ファトワー]]に自身の見解を掲載しており、このファトワーは法としての性質を持っていた。
オスマン帝国内でシェイヒュルイスラームは、学者階級の長と見做されていた。 古いオスマン帝国の政府職員は事務官階級({{仮リンク|カレミエ|tr|kalemiye}}),行政官階級(セイフィエ),学者階級({{仮リンク|イルミエ|tr|ilmiye sınıfı}})の3つに分けられていた。学者階級は現在の{{仮リンク|司法庁|tr|Türkiye Cumhuriyeti Adalet Bakanlığı}}、{{仮リンク|国家教育庁|tr|Türkiye Cumhuriyeti Millî Eğitim Bakanlığı}}、{{仮リンク|宗務庁|tr|Türkiye Cumhuriyeti Diyanet İşleri Başkanlığı}}の職務を行っていた。▼
オスマン帝国時代、[[大宰相]]となるために教育は求められなかったが、シェイヒュルイスラームとなるためにはこの第一段階である[[カーディー]]、[[ムフティー]]、[[マドラサ]]に加え、マドラサの最高位を修了しておくことが必要であった。 このことは、オスマン帝国が、シェイヒュルイスラームへと与えられる価値を示すという点で非常に重要であった。▼
== 歴史 ==
まず1424年に{{仮リンク|モッラ・フェナーリー|tr|Molla Fenârî}}へこの職が与えられた。 オスマン帝国最後のシェイヒュルイスラームである{{仮リンク|メデニー・ヌリ・エフェンディ|tr|Medenî Nuri Efendi}}が[[1922年]]に内閣と共に辞任するまでの間、498年間この制度は続いた。
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初め[[カザスケル]]とムアリミ・スルタニー(スルタン教育官)により第二級職として置かれたシェイヒュルイスラーム職は、特にイブニ・ケマル・パシャザーデ([[1525年|1525]]-[[1533年|1533]]) とエブス‐スウード・エフェンディ([[1545年|1545]]-[[1574年|1574]])の時代を経て更なる重要性を獲得し、カザスケル職よりも上位の役職として認められたと理解されている。
▲オスマン帝国内でシェイヒュルイスラームは、学者階級の長と見做されていた。 古いオスマン帝国の政府職員は事務官階級({{仮リンク|カレミエ|tr|kalemiye}}),行政官階級(セイフィエ),学者階級({{仮リンク|イルミエ|tr|ilmiye sınıfı}})の3つに分けられていた。学者階級は現在の{{仮リンク|司法庁|tr|Türkiye Cumhuriyeti Adalet Bakanlığı}}、{{仮リンク|国家教育庁|tr|Türkiye Cumhuriyeti Millî Eğitim Bakanlığı}}、{{仮リンク|宗務庁|tr|Türkiye Cumhuriyeti Diyanet İşleri Başkanlığı}}の職務を行っていた。
▲オスマン帝国時代、[[大宰相]]となるために教育は求められなかったが、シェイヒュルイスラームとなるためにはこの第一段階である[[カーディー]]、[[ムフティー]]、[[マドラサ]]に加え、マドラサの最高位を修了しておくことが必要であった。 このことは、オスマン帝国が、シェイヒュルイスラームへと与えられる価値を示すという点で非常に重要であった。
また、{{仮リンク|ムサ・カズム・エフェンディ|tr|Musa Kazım Efendi}} 、イゼッティン・エフェンディ、ハイリ・エフェンディという3人のシェイヒュルイスラームが[[フリーメイソン]]のメンバーであったことも注目されている。{{要出典|date=2015年3月}}。
== 関連項目 ==
* [[大ムフティー]]
== 参考文献 ==
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{{デフォルトソート:しえいひゅるいすらーむ}}
[[Category:オスマン帝国の人物]]
[[Category:オスマン帝国の歴史]]
[[Category:トルコのイスラム教]]
[[Category:イスラム教の称号・役職]]
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