「エドワード・プランタジネット (第17代ウォリック伯爵)」の版間の差分

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エドワード5世を廃して即位した[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の一人息子[[エドワード・オブ・ミドルハム]]が[[1484年]]に急死すると、10歳のウォリックは叔父リチャードの王位継承者に指名された。これは王妃[[アン・ネヴィル]](ウォリックの母方の叔母であり、両親の死後ウォリックと姉[[マーガレット・ポール|マーガレット]]を養子にしていた)の影響のおかげと言われている。
 
しかし[[1485年]]にアン王妃が死ぬとすぐに、リチャード3世は姉エリザベス・オブ・ヨークの息子で既に成人に達している[[ジョン・ドゥ・ラ・ポール (初代リンカーン伯)|リンカーン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポール]]を、ウォリックに代えて王位継承者に指名した。この経緯について、アメリカの歴史家[[ポール・マーレー・ケンダル]]は1955年に、「ウォリックは(中略)今で言う『知恵遅れ』の少年だったと思われる」と論じている。また、英国の歴史家[[ジェレミー・ポッター]]は1983年にそれまでの歴史家の結論に基づいて、「ウォリックは(中略)単純志向であったかもしれない:後に彼は『ガチョウと鶏を区別することもできない』と言われた。」としている。恐らくリチャードは、息子を亡くして1年も経っていない失意の王妃を喜ばせるために、あくまで一時的な処置としてエドワードを王位継承者に指名したものと思われる。
 
多くの歴史家がウォリックは知恵遅れであったと書いている。だがそれらの論拠は、歴史家エドワード・ホールが「ウォリックは長いこと牢に入れられて、人や動物と切り離されたため、ガチョウと鶏を区別することもできない」と書いた事に基づいている。
 
[[1485年]]にリチャード3世を倒して[[テューダー朝]]の[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]が即位すると、ウォリックは[[ロンドン塔]]に投獄された。この時点ではまだヘンリー7世の王権は確固たるものではなく、[[ヨーク朝|ヨーク派]]の後継者として王位継承権を持つウォリックは厳しくマークされたのである。特に、[[1487年]]に[[ランバート・シムネル]]がウォリックの名を騙って反逆を企てると、より厳しく監禁されることとなった。