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== 事件の時代背景と推理 ==
{{seealso|逆コース}}
[[1949年(昭和24年)]]は[[冷戦]]時代の初期であり、[[中国大陸]]では[[国共内戦]]における[[中国共産党]]軍の勝利が決定的となり、[[朝鮮半島]]でも[[38度線|北緯38度線]]を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの[[民主化]]から[[反共主義|反共]]の防波堤として位置付ける方向へ転換した。まずは高[[インフレーション|インフレ]]にあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆる[[ドッジ・ライン]]に基づく緊縮財政策を実施する。同年[[6月1日]]には行政機関職員定員法を施行し、全[[公務員]]で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の[[整理解雇|人員整理]]を迫った。
 
同年[[1月23日]]に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、[[吉田茂]]の[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]が単独過半数264議席を獲得するも、[[日本共産党]]も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や[[国鉄労働組合]]もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と「人民政府」樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の[[7月4日]]には、3万700人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた<ref>{{cite news |title = 第一次分に三万七百 國鉄、整理を通告 残余は中旬から実施 |publisher = 朝日新聞社 |page = 1 |date = 1949-07-05 |accessdate = 2014-07-07}}</ref>。
 
=== 他殺説 ===
[[松本清張]]は『[[日本の黒い霧]]』を発表。当時日本を占領下に置いていた連合国軍の中心的存在である[[アメリカ陸軍]][[:en:Counterintelligence Corps (United States Army)|防諜部隊]]が事件に関わったと推理した。また下山事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では連合国軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版されている。
 
大新聞の中では、[[朝日新聞]]と[[読売新聞]]が他殺説を報じた。朝日新聞記者の矢田喜美雄は、[[1973年]](昭和48年)に、長年の取材の成果を『謀殺下山事件』にまとめ、取材の過程で「アメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだ」とする人物に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。
 
[[1999年]]([[平成]]11年)に、『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載。その後、取材を共同で進めていた[[諸永裕司]]著『葬られた夏』、[[森達也]]著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、[[柴田哲孝]]著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版。いずれも元[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍属]]が設立した組織と[[亜細亜産業]]関係者による他殺と結論付けている。また下山の友人、知人等は「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである」として他殺説を支持する者が多かった。
 
この外には、
 
==== 他殺説の主張 ====
* 下山が総裁だった当時の国鉄の幹部や従業員の中には、「国鉄マンが鉄道で自殺するはずがない」という矜持が強かった<ref>テレビ東京系列『[[ザ・真相~大事件検証スペシャル]]』[[2004年]][[10月11日]]放送「[[プロ野球再編問題 (1949年)|プロ野球2リーグ分裂]]と国鉄」より。</ref>。
* {{要出典範囲|date=2015年1月|下山はことあるごとに「鉄道の仕事に就けて幸せだ」と言っており、大好きな鉄道で命を断つ訳が無い。}}
* {{要出典範囲|date=2015年1月|実直な下山が、遺書も残さずに死ぬ訳が無い(国鉄の同僚の[[島秀雄]]・[[加賀山之雄|加賀山]]らの説、[[安部譲二]](父が知己)の説)。}}
* 轢断面やその近辺の出血といった痕跡が無いのは、轢かれる前にすでに死んでいた事を意味する(東大・古畑説)。<ref>[[古畑種基]],1958年.『法医学の話』岩波書店〈岩波新書〉青323. P.25「本件では、損傷のどこにも生活反応がみつからなかったので、われわれは「死後れき断」と判定した(四五ページ参照)。」</ref>
 
=== 自殺説 ===
事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張(毎日新聞が自殺証言のスクープを出したため)。同紙記者[[平正一]]は取材記録をめた『生体れき断』[[1964年]]を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。
 
[[1976年]](昭和51年)には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は[[松川事件]]の[[被告人|被告]]として[[逮捕]]・[[起訴]]され、14年間の法廷闘争の末に[[無罪]][[判決]]を勝ち取った人物であり、下山事件も[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)あるいは[[日本政府]]による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。
 
==== 自殺説の主張 ====
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* 失踪の直後、[[平塚八兵衛]]が下山の自宅に事情を聞きに行ったところ、まだ遺体が発見される前だったが、夫人は「ひょっとしたら、自殺じゃないかしら。自殺じゃなければ、いいんですが……」と言った。平塚は後に「奥さんのこの証言をはっきり調書にとっておけば、他殺だなんて議論がでてくるわけがない。家族が一番よく知っているわけだよ」と回顧している。その後、平塚が東京鉄道病院の記録を調べたところ、下山は6月1日に神経衰弱症と胃炎という診断を受け、1日にブロバリン(睡眠薬)0.5グラムを2袋ずつ服用するなど、かなり重篤な状態であった。<ref>『[[刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史]]』新潮文庫、平成16年</ref>
* 下山には事件現場の土地勘もあった。現場はもともと鉄道自殺が多い場所だった。鉄道局長だったころの下山は、自殺対策がらみの仕事で地元と交渉するため、現場付近に来たことがあった。<ref>『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫、平成16年</ref>
* 事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、しかしそれらの先々で用件を言うでも無く「嘆願や脅迫が自宅に来る」とこぼして涙ぐんだりするのみだった。他にも前日から当日朝(GHQ より迫られた、解雇発表の期限)までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある(几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、[[弁当]]を食べずに持ち歩いて交通会館の無人の部屋で一人食べるなど)。
* 鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血が無い事もある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器がメチャメチャに粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい(北大・錫谷説)。
* {{要出典範囲|date=2015年12月|結果的には、警察やマスコミによる自殺説の発表は GHQ により差し止められ、労組による他殺という風説が流布されて、後の総選挙での[[日本共産党|共産党]]の躍進が阻止され、日本の共産化が阻止されたのだから、事案そのものは自殺であったとしても、謀略があった事に変わりはない。}}