削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
7行目:
[[天正]]12年([[1584年]])、同じく秀吉の家臣である[[黒田孝高]]の子・黒田長政と結婚<ref>『黒田家譜』</ref>(豊臣秀吉の養女として嫁いだとの説もあるが定かではない<ref>須藤(2014) </ref>)。[[慶長]]2年([[1597年]])には娘・菊(後に[[井上之房]]の子・[[井上庸名]]の妻)が生まれる。
 
ところが、[[関ヶ原の戦い]]の直前に離縁させられ、長政には[[徳川家康]]の意向(婚姻政策)により家康の養女である[[栄姫]]([[保科正直]]の娘)が正室として嫁いだ<ref group="注釈">[[黒田忠之]]、[[黒田長興]]、[[黒田高政 (東蓮寺藩主)|黒田高政]]はいずれも栄姫の子である。</ref>。なお、この糸姫との離縁が、江戸時代中期までの黒田家と蜂須賀家の127年に渡る「不通大名<ref group="注釈">江戸時代、意図して互いに交流をしない大名同士のこと。江戸城内で会っても会釈も挨拶も交わさないとされる。1727年和解。</ref>」のきっかけとなった。なお、両家は[[徳島藩]]五代藩主、[[蜂須賀綱矩]]の時代に和解している
 
その後は実家・蜂須賀家領国の[[阿波国]]で暮らし、正保2年(1645年)に死去。戒名は寶珠院殿桃渓僊公尼大姉。墓所は[[臨江寺 (徳島市)|桃渓山臨江寺]]。
 
なお、蜂須賀・黒田両家が和解するのには、[[徳島藩]]五代藩主[[蜂須賀綱矩]]の時代まで待たなければならなっかた。
 
== 脚注 ==