「桐生火葬場事件」の版間の差分

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[[1933年]][[4月16日]]、更なる発掘の結果、火葬場西北隅と南隅から85体の死体が発見された<ref name="新聞260" />。いずれも死後5-6年を経過していた<ref name="新聞260" />。このうち20体は子供の死体だったため、警察は[[貰い子殺人]]の可能性を疑ったが、解剖の結果、いずれも病死であり他殺の疑いはないことが判明した<ref name="新聞260" />。
 
松井は「少しのチップで夜通しかかって焼くのは面倒だからやむなく半焼にして埋めた。チップが多くてよく焼いた死体の残骨を分けて骨上げに来た家族の者にやっていた。数は覚えていない」と供述<ref name="新聞261">『新聞集成昭和編年史』1933年度版、261ページ</ref>。松井はまた、死体から金歯を抜き取り、迷信家の依頼で脳漿を摘出し、これらを売って利益を得ていたものと思われた<ref name="新聞261" />。この事件の責任を取り、[[1933年]][[4月17日]]、桐生市長の関口義慶は辞表を提出した<ref name="新聞266">『新聞集成昭和編年史』1933年度版、266ページ</ref>。
 
以後も現場の発掘が進み、火葬場付近の3ヶ所から[[頭蓋骨]]を打ち砕かれた死体やバラバラ死体が約80体発見された<ref name="新聞266" />。また松井の共犯として、私営時代の火葬場経営者の山本興静が摘発された<ref name="新聞266" />。山本は、燃料節約の目的から死体を完全に焼却しなかったと述べた<ref name="新聞266" />。死体を埋めるにあたっては墓場の穴掘り人足2名が手伝ったことを供述した<ref name="新聞266" />。