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デリーのヒンドゥー教徒の民衆はジズヤ復活に抗議し、デリー城の城壁にまで押し寄せたほどであった。だが、なかにはこれを機にイスラーム教に改宗するものも少なくはなく、アウラングゼーブはそうした人々に賛辞を述べた。
 
アウラングゼーブがジズヤを活すると、シヴァージーも抗議の手紙を送って諌め、今ある帝国の繁栄は過去の皇帝の努力によるものだとわからせようとした<ref name="p241">ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.241</ref>。彼は「ジズヤを復活して貧しい人々を苦しめ、ティムールの名を汚した」、と厳しい批判を書き連ねている<ref name="p241"/>。
 
同年7月、マールワール王国、メーワール王国のラージプートらが帝国に対して反乱を起こした<ref name="p239"/><ref>メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.51</ref>。これはジズヤの復活を契機としたものであったが、そのほかの原因には[[1678年]][[12月]]に[[マールワール王国]]の君主ジャスワント・シングが死亡した際、後継者がなかったためにその領土を帝国の直轄領化したことがあった。アウラングゼーブはこれに対して武力を以て応じ、これらとの戦争に入った([[第二次ムガル・ラージプート戦争]])。
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