「直江兼続」の版間の差分

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最上義光と上杉家は、庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係は悪かった。さらに、上杉家から見ると自領は最上領により分断されており、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれていた。当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減した。義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも、東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていた。義光の動きを察知した兼続は、機先を制した。義光は戦力集中のため一部の支城の放棄を命じたが、[[畑谷城]]を守る[[江口光清|江口五兵衛]]などはこの命令を拒否して籠城、上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく[[志村光安]]が守る[[長谷堂城]]と、[[里見民部]]が守る[[上山城]]を攻める。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。
 
上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったが、[[志村光安]]、[[鮭延秀綱]]ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、[[上泉泰綱]]を討ち取られるなど多数の被害を出した。大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながら戦闘は長引き、9月29日に関ヶ原敗報がもたらされるまで、上杉軍は約2週間長谷堂城で足止めを受け、ついに攻略できなかった([[慶長出羽合戦#長谷堂城の戦い|長谷堂城の戦い]])。なお、兼続は伊達・最上を従えて関東入りする計画であったことが書状から分かっており、最上攻めは力攻めではなく大軍により最上を屈服させるのが目的であり、撤退も関ヶ原の敗報を受けたのではなく、上方の情勢を入手して反撃が激しくなった伊達・最上の動きに疑念を持った兼続が独自の判断で決断したとの説もある<ref>高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・乾-奥羽越における関ヶ原支戦の顛末-」(『福大史学』80号、2009年)</ref><ref>高橋明「会津若松城主上杉景勝の戦い・坤-奥羽越における関ヶ原支戦の顛末-」(『福大史学』81号、2011年)</ref>
 
その頃、[[美濃国]]では関ヶ原本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れたことが奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。勢いに乗った最上軍と義光救援のために[[伊達政宗]]が援軍として派遣した[[留守政景]]軍が追撃してきて激戦になるが、[[水原親憲]]、[[前田利益]]ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功した。この撤退戦の見事さは語り草となり、兼続は敵である義光や家康にも称賛され、旧[[参謀本部 (日本)|日本陸軍参謀本部]]の『[[日本戦史]]』でも取り上げられている{{要出典|date=2016年9月}}。